「生きた土と語る」01/10/01

 薪割りをする私を見た人は一様に驚かれます。わが家の薪を見ただけでも大体のことはお察しいただけるでしょう。一筋縄では割れそうにない薪が積んでありますから。太い櫟もあれば、節だらけの杏もある。ねじれた松もあれば股の部分の梅もある。モミジ、楠、アカメガシワ、檜、杉、樫なども混じっています。わが家の薪を割ったことがない人との薪割り競争なら、いかなるスポーツマンであれ相手にして引けをとるつもりはありません。その秘訣は、ここに斧を入れるといいよのと木の声が聞こえるか否かの差です。決して力まかせに斧を振り回しているわけではないのです。だから薪割りは楽しい。

 自然には同じものは二つとしてありません。人も、草も、昆虫も二つとして同じものはありません。木も同様です。同じ木でも二本として同じ木はなく、それぞれ質が異なります。その木と語らいながら、斧で立ち向かうわけです。

 この薪割りよりも楽しいのが土と語らう菜園です。さまざまな土質がありますし、その中に含まれている養分もさまざまです。住んでいる微生物もさまざまでしょう。もちろんモグラやミミズも棲んでいます。土は生きているのです。その生きた土との会話が楽しいだから、私は商社に勤めた頃から「趣味は?」と聞かれたら「菜園」と答え、「スポーツは?」には「薪割り」と応じてきたわけです。

 有機農法の楽しいところや難しいところは、生きた土とうまく語り合えるかどうかに関係します。この楽しさや難しさを知らない人が、農業の工業化を計ったものだから農業から誇りや喜びをなくしたのだと私は見ています。農薬や化学肥料の大量使用、機械化、それに適した品種改良などで成り立たせる近代農業は人の心を蝕んだように思います。農作物を食べる昆虫をきらって殺虫剤をまく。それは土の中の微生物を殺してしまう。だから微生物に有機物を無機化してもらえない。そこで化学肥料に頼る。その化学肥料を野草が横取りすると見て雑草と称し、除草剤をまく。かくして、土を殺した。その結果、発芽条件、温度や日照、水分、化学肥料の成分や含有量などに神経をはらう農業にした。あげくのはては、こうした管理のし易いビニールハウスで季節外れの作物を作ったほうが楽だし得だ、と言った農業が大手をふるようになってしまったのではないか。

 死んだ土しか知らない人が有機農法に切り換えるのは大変でしょう。工業化した農法になれると、農作物を食べる昆虫の性質やその天敵などに関する知識識見に欠ける恐れがあります。昆虫や微生物などの生き物のようすは土地柄ごとに異なっているものですから肥料成分の計り知れない有機肥料など怖くて使えないはずです。つまり、有機農法に取り組む人にとっての土は、言わば糟糠の妻のようなもので、長年にわたる相思相愛のような関係にあるわけです。だから安心とか信頼の問題がかかわり、誇りや自信の世界の話になっていくわけです。成田や砂川の農民が、耕作地の交換に激しく抵抗した背景には、こうした生木を割かれるような辛さが伴っていたからでしょう。

 生きた土を守り、慈しみ、安心して食べ続けられる農作物を作るには、それなりの心の準備が必要です。食料の量的な問題が深刻になる前に、まず質的に問題のない農法に精通し、いつでも量的な確保に立ち向かうことができる力を養っておきたいものです。

 バンクーバーのシティファーマーに参加している市民やサウサリートのゼンセンターで修行をしていた人たちは、こうした生きる力を身につけながら、自信や誇りも身につけているように見受けられました。

節の部分は緊張します。まさかりを振り上げる前にしばらく木と語らいます。どこに打ち込めばいいのか、何度ぐらい打ち込めば割れるのか、十分に語らった上でまさかりを振り上げます。
その昔、打ち込むべき所に爪楊枝を置きそれを真っ二つに裂けるように振り下ろす練習をしたものです。今は木との語らいがうまくなったのかそれほど厳密でなくとも割れてくれます。
結局は木の目を読む自問自答でしょう。

奥の畝のブロッコリーが大きくなりました。その続き、ラディッシュの間に次のブロッコリーの苗を植える予定です。手前の日の菜や菊菜も順調に育っています。
周りの木が大きくなり日当たりが悪くなりましたので、後は日照が決め手です。
積み上げた薪。松の生木、枯れたモミジ、櫟の生木など十種類あまりの木から出来た薪が見えます。ストーブや風呂で焚くと楠は、楠の香り、桜は桜の香りがします。トロトロと燃やしたい時は、太い櫟の節の部分を放り込んで置きます。焚き付けるときは、松や杉を細く割った薪を使います。混ぜて積んであるのは、焚くときの都合を考えています。


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