「久しぶりの北海道 (紋別まで足をのばす)」01/10/09

 札幌を訪ねる機会に恵まれました。札幌で余裕の時間ができるとなぜか私の足は北大に向かいます。心を引かれるのです。キャンパスが魅力的なのでしょうか。「農」が起源の学校だったからでしょうか。もちろんクラーク先生にも関心があります。

 北大では9月27日から10月3日までの間、「北海道大学創期125周年記念行事」を開催中です。朝9時に着いた私は、まず薬草園に立ち寄り、ピンセットを使って小さな鉢植えの山野草を手入れする初老の男性を見つけました。関係者以外立入り禁止の札がありましたが、温かく迎え入れられました。なのに、「大変ですね」とつまらない声をかけ、ひんしゅくを買いました。そう感じたのは、私にも野良仕事をしている時に似た心境にされることがあるからでしょう。しかし、1時間あまり見学したあとで別れのご挨拶をすると、温かい笑顔を返してもらえました。

 図書館での「北海道大学の125年」展では、札幌農学校開校時の学生のノートも展示していました。クラーク先生の英語での講義の記帳ですが、学生の資質の高さに目を見張りました。クラーク先生はわずか9カ月の滞在で大変な影響力を残しましたが、それは学生の資質にも負うところが大きかったのでしょう。「少年よ、大志を抱け!」
 1944年には、大勢の北大生も学徒出陣しています。鬼畜英米を打つ皇軍として、聖戦にかり出されたのでしょう。

 「北方古地図展」には、17世紀半ばの蝦夷地としての北海道から1865年の伊能忠敬の実測図をはじめ、さまざまな北海道の地図があり、かつては「こんないびつな地理的理解で判断を下し、生きていたのか」と驚かされました。現在、私たちは地図などは正確に理解できるようになっていますが、それを可能にした要因が逆に判断力などをいびつに、あるいは偏狭にしている恐れはないか、と何故か少し心配になりました。
 「北辺探検と蝦夷地展」では、倭人が先住民を追い詰め、生活のありようをゆがめていった様子をかいま見ました。倭人が先住民の文化を尊重する心を備えていたら、今頃日本はどうなっていたのだろうかと考えました。その心は環境破壊をここまで進めず、国際紛争などが生じても、毅然たる立場で仲裁役をかってでられていたかもしれません。

 北大の後、札幌から10数キロ離れた所にある「北海道開拓記念館」も訪ねました。9月7日から11月4日まで「知られざる中世の北海道」展を開いています。先住民が次第に効率主義者に変わり猛々しい心になっていったことが感じられます。

 こうした催しものを見た後で紋別まで足を伸ばし、友人を訪ねました。春には二輪草などが一面に咲く近くの公園や自然林を散歩しました。冬には流氷が押し寄せるオホーツクの海岸、春になるとハマボウフウを採っていつも送ってくれる海岸にも連れていってもらいました。その内湖にはサンゴソウが残っていました。

 はや紋別では夜通し中、炎を小さくしたストーブをつけていましたが、土地は安いし景観は良い。食べ物は豊かでおいしいし、食に対する政策も良い。友人宅では海岸で摘んだハマナスの実をジャムにして保存したりしていましたが、自分でトマトを作ったり魚を釣ったりして持っていけば缶詰にしてくれる施設もある、と聞きました。望ましき人生とは、とふと考えながら北海道を後にしました。

 帰路、なぜかアメリカのユタ州を訪ねた時のことを思い出しました。ユタで出会った人々は今頃、何を考えているのだろうか、と考え始めていました。

何故か心惹かれる北大ですが、一つだけ失望しました。前に来たときにはあった木造の男子寮が見あたりませんでした。たしか寮生が雪の日に裸で二階から飛び降りていました。私がその寮生ならその失望はアイデンティティの喪失にも近いものでしょう。

施政者の口から正義とか聖戦などの言葉を聞かされて心を打たれるようになると、その心はどこかいびつで偏狭になっているのかもしれない、と心配になりました。
一度見たら心に強く焼き付けられる独特の意匠。厳然とした統一性がありながらそれぞれの意匠には個別性がある。まるで同一民族の顔のようだ。各人の個性や尊厳まで表しているように私には思える。 今日の私たちが用いている衣服は、その人の顕示欲や射幸心など欲望を主に表象しているように見える。

豊かな自然にとけ込み自然の一部として生を保っていた文化であったことを感じる先住民の生活用具。獲物のシャケも独り占めせず野生の動物などにも分ける心をわきまえていたと聞く。
丈夫で長持ちしそうな衣服や生活用具。しかし固有の文化が失われた様に見える。

生活を支えた道具。機能的にはなったようだが、私には何かが物足りない。


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