「生活の営み」01/10/22

 例年より少し早かったのですが、妻がゴーヤの蔓をはずし、竹で私が作った手を取り去りましたので、私は畝を耕しました。妻が堆肥を運んできたので私は鋤き込み、そのあと妻が水菜と壬生菜の苗を植え、水やりをしていました。先週のことです。

 私たち夫婦は、自分たちらしい生き方をしたいと願って努力してきました。努力というと「しんどそう」に聞こえますが、現実は「楽しんで」きたわけです。それは、自分たちの個性や身の程にあった生き方を見定め、自分たちらしい生活の形を作りたかったからです。裏返していえば、どこで個を解放しあい、どこで縛りあうかを考えながら生きてきたわけです。だから大都会に飛び込めなかったのかもしれません。

 充実した生き方にとって大切なことは「生きる営み」ではないか。それを実感することが生きる証ではないか、と考えたのです。だが、うっかりしていると、世の中の流れに巻き込まれ、その実感を放棄させられかねない。本来は、食べ物一つでも、誰が何をどんな思いで作ったのか、誰が何をいかに感じながら食べたのか、といった話が人の数と同じだけ多様であったものが、画一化しています。生活の営みを外部化し、工場で作られたもの を買ってきて食べるのが当たり前になると、次第に金額や数の管理で事足りる関係に追いやられがちです。都会ほどその誘惑が多いのではないか。作り手は、食べる人の顔など関係なしに金儲けのための万人好みを目指します。食べる方は誰がどのような思いで作ったのかなど考えず、美味しいとか柔らいの世界に閉じ籠もりがちです。恋を例にとれば、デートを重ねたり言い争いをしたりした末にプロポーズをして結ばれるのではなく、つまり 愛の営みではなく、いきなり欲望をぶつけ合うようなことになりかねません。私は食や住の面でも生きる営みを大切にしたかった。だから風呂一つでも、母が存命中は、私が作った薪と沐浴剤を使って妻が焚き、2番目に入る。母は最後に好きなようにゆっくりと入って掃除と戸締りをして出る、といった使い方を好んできました。

 もちろんこうした生き方を選んでしまうと、大喧嘩をしても、割り木をつくったり焚いたりする取り決めはキチンと守らないと風呂にも入れません。つまり、家族が自己責任の下に自己完結性に富んだ生き方を選ぶと、自ずと相互扶助や相互規制の問題がつきまといます。とりわけ持続性のある生き方を選ぶと、この問題は厳密な問題となります。それを楽しいと思うか苦難と思うかは価値観の相違でしょうが、それを文化と考える点では異論はないと思います。わが家では、わが家流の文化を創出したかった。

 世の中は逆に、便利なモノやサービスを次々と用意し、風呂も指先1本で入れるし、鯛の兜煮も買ってきていきなり食べられるようにしてきました。引っ越しも頼んでおけば手を汚したり汗をかいたりする必要はありません。お金で、個別の文化を不要にしてきたのです。だから、漬物が不味くても、買ってきたものなら、何を失敗したのか反省したり詫びたりする必要はなく、皆でメーカーを罵っておれは済んでしまいます。だがこの流儀は、お金を絶たれると大変です。それだけにリストラや定年が余計に不安になりそうです。わが家の生活では逆に、収入はほんの手段であって、自分たちの生活の営みを目的とし、個別の文化を創ってきました。いつの間にか、どこにもない料理や沐浴剤を創り、家族で楽しむ生活になっていました。

 だから逆に、妻は人形に、私は原稿にとより個別の時間や空間も求めるのでしょう。こうした生き方は、豊かな自然が気づかせたり磨いたりしてくれるように感じています。

ゴーヤ(ニガウリ)の後に水菜と壬生菜の苗を植えました。壬生菜は京野菜でハリハリ鍋や漬け物によく使います。
ハリハリ鍋とは、壬生菜と鯨の肉を砂糖と醤油で味付けして食べる鍋料理です。菜っぱがまだハリハリして いる状態で食べるので付いた名前でしょう。
今日では、 鯨の肉を食べませんので代わりに豚肉かお揚げを使います。

ブロッコリーはここまで大きくなりました。集中的に虫に狙われているものもあります。虫の癖でしょうか。
新しく追加する沐浴剤の材料。トウキに加えて、このたび初めてイタリアンパセリを使ってみることにしました。これからレモングラスなどを刈り取り干して加えたら完成です。毎年のように配合が変わりますので余計に楽しく感じます。


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