「愛とは何か」01/11/26 先週収穫した日野菜は一昼夜干してから漬けました。一晩塩で下漬けして水上げすると嵩(かさ)が半分になります。そこで糠(ぬか)をいれて本漬し、一ヵ月ほどしてから食べ始めます。いつも本数や目方など計ったことはありませんが、妻が「ちょうど小樽いっぱい分だわ」と声をあげ、なぜか私は夏に訪ねたモンゴルを思い出しました。 かつてモンゴルの人々は20以上の数をすべて「沢山」でかたづけていたと知ったときの思い出です。1のネグから始まりホイル(2)ゴロヴ(3)と進み、9はイス、10のアラヴと数え、11は10(アラヴ)と1(ネグ)を加えてアルヴァンネグと呼び、アルヴァンホイル(12)アルヴァンゴロヴ(13)と進めながら、20を2つ(ホイル)の10(アラヴ)と考えてホイルンラヴとでもすればよいのに20から上はすべてズンドウ(沢山)でかたづけていました。この事実を知り、私はとても親近感を覚えました。 これまで私は、しばしば「アイトワの森」の樹木の数を問われました。その度に答えに窮しながら、樹木の数など長い間数えていなかったのです。毎年のように立ち枯れる木がありますし、間伐もします。間伐では燃料がたらないときは燃料用に育てている櫟を切り倒し、再生させてきました。また、杭を作るために檜を、斧の手を作るために樫をといったぐあいに、それぞれの目的にあわせて木を切ってきました。逆に、小鳥の糞から芽生える木や私が植える苗木もありますから、いちいち木の数を数えている暇なんてないし、第一そんな気にはなれません。だからといって、どこにどのような木があるのか分からないかといえば嘘で、きちんと分かっています。小鳥の糞から芽生えた小さな「ハリトウシ」を見つけて妻にその位置を教えることもありますし、その逆もあります。 もちろん影の薄い木や、気に留めるまでもない木もありますから、どこにどの様な木があるのかを紙に書いて示せと言われても、すべては無理でしょう。しかし肝心のものはきちんとおさえているつもりだし、なくなれば気がつくはずです。それが本来の認識の仕方ではないかと思います。たとえば「切手収集家」の多くは、切手を何枚持っているのか知らないのに1枚でも盗まれるとすぐに気づきますね。 モンゴルの遊牧民は、20以上の数を認識していなかったのですから、たとえば「ナンバー28の山羊とナンバー126の羊を盗まれ、223頭になった」といった把握ではなく、「初めて妊娠した尾が黒い雌の羊と気性が激しく右の角が欠けた雄の山羊がいない」といった認識の仕方をしていたわけでしょう。だが、モンゴルもソ連の支配下になった時から教育により20以上の数も言葉で表すようになり、すでに20以上をズンドウで済ませた過去を知らない人が大勢います。それが逆にお金に敏感な人を増やし、カシミヤ山羊の過放牧に走るなど金色夜叉を生み出していた恐れがあります。数字で把握し始めると、人は使い切れないほどのお金まで正確に数え、欲張りになりかねません。 問題は、どちらの認識の仕方が家畜や地球にとって優しいのか、ということです。もちろん究極は、どちらが人間にとっても優しいのか、ということでしょう。「アイトワ」では何れの方法で樹木などを認識すべきか、もう一度考え直してみようと思っています。もちろん今もいちいち数など正確に数えておらず、何年か前に数えたのを頼りに感覚でとらえ続けているだけですが、やむなく数え直さなければいけない時もあることでしょう。税務署をはじめ私たちは数字で管理や支配をしなければならない組織や人を作ってしまっているのですから。
モンゴルで見た一つ一つ手作りの楽器。遊牧民の楽器をカザフスタンなどでも見ましたが、一つ一つ形や大きさが異なっていました。 人の歌声がみんな微妙に違うように楽器もそれぞれの差異を競っていたのでしょうか。 個を尊重する心は数での管理や表現では表しにくい物です。