足跡発信  02/02/18

 両親が息を引き取った母屋の周りの庭掃除をしました。妻はまだ亡き母の下履きを踏み石の上に揃えて置いたままにしています。私も、掃除をするためにのけたりしますが、また揃えて置きなおします。母より7年先に死んだ父のものは、あらかた母が整理をしたのですが、母の残したものを妻も私も忙しさのせいにして整理をしていないのです。近頃、その理由の一つがぼんやりと分かるようになりました。それは母が残した足跡です。足跡といってよいのか手垢といってよいのか、それとも記録といってよいのか分かりませんが、わが家には母が生きていた証があちらこちらにあるのです。

 両親が健在のときは、私は父には多々教えられることがありました。少し煙たい存在でした。妻は父とはウマがあったようで、みごとな冗談のやりとりをしていました。だから母は「あの二人は、同じウシ歳だからウマがあうのね」といっていたほどです。そのせいか、妻は父の葬儀の折はさめざめと泣いていました。だが、母の時は涙など流していません。それはやるだけのことをやったからでしょう。母は大腸ガンで人工肛門をつけましたから、それは臭い便袋の取り替えも必要でした。実の息子が、よくやるなぁと思ったぐらいでした。だからでしょうか、私も母の時は涙を流していません。

 死に方は、後に残された者への配慮の点で母の方が勝っていました。主治医にあと2〜3日といわれながら点滴を拒んだまま40日間も、最後の5日ほどは流動食をガーゼに浸して与えられながら気力で頑張り、父以上にありがたい日時を選んでくれました。食事の後に入れ歯の掃除をしてあげていましたが、それもよかったようです。

 妻の人形教室や喫茶店が夏休みに入った最初の金曜日、私が翌日から4連休を取れる日の夜に息を引き取りました。私は学長になったばかりでしたから、大勢の人を煩わせるのはいやでした。だから、表向きは学校関係者には誰にも知らせずに葬儀を済ませたいと思っていました。その願いがかなえられる唯一の日を選んだような他界でした。父の場合も、1日ずれておれば妻は東京での個展を控えていただけに非常に困っていたはずです。母はその死に方を見習ったのでしょうか。私が帰宅し、母に挨拶をし、夕食を済ませた後の11時過ぎに、妻に体を摩られながらスーッと消え入るような死に方でした。主治医には飛 んできてもらえたし、お寺にも「まだ12時前だから」ということで電話を入れました。半時間遅れておれば「翌朝に」ということになっていたと思います。おかげで火曜日までの4日間で葬式をすませ、授業があった水曜日に出講し、学生にも迷惑をかけなくて済みました。それも、2人が母に心の中で生き続けていてほしいわけでしょう。もちろん嫁と姑の諍いはありました。しかし、妻はお出かけや取材などがあると、母が残した着物を取り出しては着るようになっています。

 それもこれも、不便なところに住み続けたおかげかもしれません。着かず離れずの距離で一緒に住む広さを確保しやすいし、庭仕事に負われて家を空けにくく、多忙を理由に母 に朝食当番や彼岸のおはぎ作りなどの当番をしてもらえたからです。だから享年93歳まで惚けずにいてもらえたのでしょう。もちろん虫の居所が悪くなると、「鬼嫁じゃ」とか「飯炊きばばーじゃあるまいし」と母は憎たれ口をたたいていましたが。

 庭掃除は、この度も母の花壇から始めました。生前なら喜んでもらえたのですが、少し張り合いがなくなったのが残念です。まもなく、母の花壇でミヤコワスレなどが芽をのばし始めることでしょう。


母の居間の前の踏み石。母の足腰が弱りかけた頃に石ころとセメントで私が作りました。

母が5〜6歳の頃に着ていた着物(大正元年頃)を使って人形用の着物を母が作ってくれました。3月20日からの個展に非売品で出展します。


この母が作った筆立てに母の使っていた物差しが見えます。今は三角部屋で私が使っています。
この手の筆立てを他でも4カ所で私は使っています。

バケツにも母の文字が見えます。これは現役で使用しています。
この箕(み)は、病床の父と私たち三人の子供を農業で食べさせていた頃に母が使っていたものです。今はサンクンガーデンの薪置き場に飾っています。
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