三人のお陰 02/10/08
土曜日の畑仕事を早めに切上げ、駆けつけてみると、それはまるで小学校時代のクラス会でした。「50年ぶりだなあ」との声があちこちで聞かれました。私にとっては小学校から大学まで一緒に過ごした友が、小学校から高校まで一緒だった友の画廊で油絵の個展を開きましたが、それをきっかけに男女ほぼ半々の50名近くが集ったのです。ライオンのように怖かった体育の教師にも会えましたが、今や好々爺でした。なぜか私は好々爺の恩師や個展を開いた友と並んで上座を与えられ、乾杯の音頭をとらされました。思えば、集った中では個展の友と私は一番永い間机を並べた関係でした。その思い出と一杯のうどんの話を披露した後、友の幸と恩師や皆の健康を祝して乾杯しました。
「これは美味しい」と感じた思い出が私にも幾つかありますが、それは小学校1年生の時に食したうどんの思い出です。当時は食料難で、よそで食事をすることはめったになかったのですが、友の母に呼び止められ、出し汁がいっぱい入ったうどんを御馳走になりました。もちろんわが家でもうどんを食しましたが、汁の少ない煮込みうどんで、あまり美味しくはなかったのでしょう。とにかく、こんなにうどんとは美味しいものか、と思いました。これがたぶん、人生最初の親が付き添わない外食だったように思います。
生まれた初めて舟に乗せてくれた保津川沿いに住んでいた友の顔もありました。友が竹竿を操って乗せてくれたのですが、個展を開いた友が同乗していたことが分かりました。旅館の息子だった友もいました。中学から別れましたが就職後に再会し、互いの社員食堂のメニューを連絡しあって訪ねあった仲です。彼は大阪の石油会社に、私は商社に勤めましたが、ビルが近かったのです。他に、ライバル商社に勤め、定年退職したという男もいました。デュエットでカラオケを上手に歌う男もいました。家業の農業をそっちのけで歌唱を習い「1億円つぎ込んだ」といいます。先生は若い女性だったのではないか。
思えばその頃、私は農業や林業の大切さに気づき、サラリーマンのかたわら、週末は開墾や植林に精をだし、江戸時代の下級武士よろしく自給自足を旨とする屋敷林づくりに没頭していたわけです。生け垣はその頃に拾ったドングリの結果です。ストーブや風呂炊きに用いているクヌギもその頃に苗を植えた成果です。菜園は、温室やパーキング場のためにとられて半減しましたが、同じ農法で40数年来維持しています。建物は、9度の増改築の結果ですが、最初の家屋は40年前に金融公庫を使って建てました。
その時の大工さんの娘も参集していました。彼女の存在に初めて気づいたのは小学4年生の時でした。夏休みの宿題で小鳥の巣箱づくりが出たのですが、彼女はカンナをかけた白木で作った見事な巣箱を持ってきたからです。だが、小鳥は彼女のを選ばず、みかん箱を廃物利用したような私たちの巣箱を選びました。もちろん今では、巣箱をかけた方向や高さなど位置の関係であったようだと気づいています。
この集いは、個展を開いた友のお陰で持てましたが、賑わったのは花屋をしている友と画廊を貸した友のおかげです。花屋の友は、中学をでて悪戯ばかりしていたが一年発起して「花屋に勤めた」といいます。今は自分で花屋を経営しながら、町の世話役をしています。画廊を貸した友は主婦業も立派にこなしています。この二人の定年のない友に誘われて私は一も二もなく参加しました。そこで、これまでの日本は農民や主婦など定年や左遷のない生業の値打ちやパワーをおろそかにしていた、と気付かされました。
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