壺庭と洞察 03/04/22
飛濤亭(ひとうてい)という茶室、数寄屋造りの傑作を見ました。仁和寺の一角、宸殿北庭の木立の中にあります。寛政年間(1789〜1801)に作られた光格天皇が遺愛した席といわれます。葛屋葺(くずやぶき=草葺きの屋根)ですが、庇の二方は柿(こけら=木材を極く薄く割っ板)葺きで、樋には孟宗竹を二つに割って使い、壁は蕨(わらび)をたたいて繊維化したものを藁(わら)のすさ代わりに塗り込めて粗壁のような趣をだしていました。粋人が趣味を競いあって生み出した侘・寂の世界です。
仁和寺は、お寺というよりも作りは寝殿です。それもそのはず、平安時代に58代光孝天皇が西山御願寺として着工。仁和4年に宇多天皇が完成し、退位後に修行の場となっています。なのに私はこれまで御室を地名と思い、「御室の仁和寺」と呼んできましたが、本来は「仁和寺の御室」、仁和寺にある天皇の御室と言うべきだったのです。「竹壺」と称する小さな四角い庭がありました。二つの建物とそれらを結ぶ2本の渡り廊下で囲まれた庭で、低く剪定された細い竹が生えていました。もしもそこに藤とか桐が植えられておれば藤壺とか桐壺と呼ばれていた、との説明がありました。つまり「つぼにわ」には、漢字にすれば坪庭と壺庭があるようだと知りました。
仁和寺を訪ねたのは、年に2〜3度京都で会する仲間との花見でした。仲間の半数は関東勢で、1泊2日の参集ですから、いつも常任幹事は訪ねる先に趣向をこらします。このたびは非公開のこの茶室に私はとても感動しました。ボタン桜の樹海の中で豪勢なお弁当を広げながら、生まれ直せるものなら数寄の職人になりたいものだと考えました。食後の団子は非売品でしたが、残った1本を皆さんに勧められ妻の土産にしました。
庭仕事も捗りました。櫟の頭を再度取る作業は一番太い一本を残していましたが、無事に切り落とし、枝をはらい、幹の玉切りも済ませることができました。はらった枝の太いところは鋸で切って薪や柴にし、小枝は燃やして灰にしました。菜園では、ブロッコリーと中国野菜のコウターサイ(紅ターサイ?)の畝の跡を耕し、いつでも夏野菜の苗を植えられるようにしました。過日耕したホウレンソウの畝跡には、海外旅行で覚えたアーティチョークの苗を3本植えました。巨大なアザミの一種で、蕾を湯掻いて鱗片を1枚ずつはぎとり、果肉を歯でしごきだして食べる野菜です。
アイトワ塾では15年前の処女作の読み直しが始まりました。第一章ではファッションビジネスの台頭に触れていますが、その中で世界的に生じていた服飾上の大変革に目を着けています。それは、日本での南北朝騒乱や明治維新など過去の例にならえば、近く世界的な変動が起きる前触れに違いないと記しています。振り返れば、この15年間にソ連が消滅したりECがEUと化粧直し(?)をしたりしています。「そういえばベルリンの壁が消えた時に、大勢のジーンズ姿を見たなあ」との声が聞かれました。
予言が的中したとか、外れたとかはたいした問題ではないと思います。もし的中率が高ければ、それは何故か。外れがあれば、何故外れたのか。こうした点の掘り下げが大切だと思います。わが国では「来年のことを言えば鬼が笑う」ではありませんが、未来の洞察を侮る傾向があります。欲望を解放しておればすむ時代はそれでもうまく行ったでしょうが、今やそれでは通用しない時代だと思います。木を切るのは目先の勘定で済ませられるでしょうが、植える時は100年後を想像したり洞察したりしておくことが大切だと思います。
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