韓国雑感 03/08/23

 博多から3時間の水中翼船で釜山にわたり、江陵を経てソウルに至る旅をしました。18年ぶりの訪韓でしたが、これまでの幾たびかの旅は玄関と客間だけを覗いて帰っていたようなものだと知りました。多雨の梅雨に泣かされていた九州を後にしましたが、韓国では昨年異常多雨に泣かされており、各地で決壊した堤防や流された橋梁の補修工事をしていました。先年、洪水で北朝鮮が泣いていたことをふと思い出しました。

 この十八年間で決定的に変わっていたのは山の姿でした。釜山から任川国際空港に至るまでバスやタクシーを乗り継ぎ、主に山間部を走り、終始注意していましたが、ついに地肌を剥き出しにした山を目にしませんでした。赤松を主体に、クヌギやハゼのような落葉樹と地をはう低木など多様な植物が入り混じった緑化が、つまり自然を呼び戻そうとするかのような緑化が時間をかけて進められていたようです。他方、ソウルでは近代建築が陸続と誕生していましたが、そこでも大がかりな緑化計画が見て取れました。その緑化は逆に、巨木まで移植しており、忽然と林のような憩いの場を出現させようとしているかのようでした。要は、いずれの緑化も、確かな意図や強い連体感の下に進められているようだとの印象を受けました。

 韓国はすっかり車社会になっていました。巨大なトレーラーから普通乗用車にいたるまでさまざまな車がひしめき合っていましたが、ヒュンダイ(現代)を筆頭とする国産車ばかりで、日本車などの外車は目にとまりませんでした。その是非は別として、ここにも強い意図や連帯感を感じざるをえません。きっとこの国では、若者の目にも大人が目指してところがよく見えているに違いないと思いました。そのせいでしょうか、若者は礼儀正しく精気に満ちているようでしたし、だらしなくズボンをはく高校生やスカートを忘れたような女高生はもとよりジベタリアンは目にとまりませんでした。

 木賃宿にも泊まりました。賑やかな温泉街やさびれた炭鉱街、火田民と呼ばれる焼き畑民の家屋や両班と呼ばれていた旧貴族の家、あるいは中央市場や古い集落などを訪れたりさまざまな食事を試みたりしました。もちろんいたるところにコンビニエンスストアーがあり、お向かい同志で競う例も多々ありましたが、そのいずれの一角にも簡単な調理をして軽食がとれるコーナーを設けていました。戸建ての民家だけでなく鉄筋の集合住宅でも随所で蓋のある大きな壺が幾つも青空の下に並べられていました。キムチなどの保存食の壺だと聞きました。ワラビやキキョウの根の干物など医食同源の食材を売る屋体を随所で見ました。食文化を頑に守ろうとしているようです。

 北朝鮮の潜水艦が座礁したことがありましたが、その海岸も訪れ、緊張した雰囲気を感じてきました。しかし、かつて体験した深夜は外出禁止であった戒厳令下のような緊迫感はすっかり失せていました。手を携えてオリンピックに参加した南北の国民は、すでに心の中では一体になっているのかもしれません。典型的な韓国風のレストランで、同じ料理をほうばる観光客を相手に、目を輝かせて南北統一の夢を語る若者がいました。政治問題をこじれさせ、戦場で南北の国民をあいまみえさせるようなことはしないでほしい、国民間に埋めがたき心の溝を作らせないでほしい、と訴えかけるような目でした。北のヒエラルキーさえ崩壊したら、国民は一気に統合し、南北を一つにしてしまいそうです。多くの南の人はそうなることを願っているように感じました。


任川国際空港から見た山です。かつての地肌剥き出しの山が連なっていた国のイメージは一変です。山々を覆う赤松を主とする樹木の樹齢はいずれも若く、種や苗から育てたのではないかと思いました。あちらこちらで新築中の木造建築を目にしましたが、松をふんだんに用いていました。


ソウル市内でみた新築の近代高層ビルと巨木の植採です。移植したばかりの巨木が風などで倒れないように、巨木間に丸太を水平にかつ縦横にわたし、巨木をつなぎとめあっていました。すでにその木陰で憩う人が現れています。


山間に火田民の家を訪れました。老婆が、オンドル部屋に用いていたビニールの敷物をはがして日に当て、雑巾でカビを拭いとっていました。かつては油紙を敷いていたはずですが、構造や他の建材を変えずに敷物だけ呼吸しない化学製品に代え、カビに悩まされているようでした。建材の部分的な変更は危険なのでしょう。

両班の離れです。離れの手前は夏用で、涼しくする様々な工夫が凝らされています。奥はオンドルの設備がある冬用で、床下の構造から寒さ対策は万全です。問題は、貧富の差が広さや建材とか細工などで差をつけているとはいえ、家屋の様式は、立て膝や胡座、キムチやビビンバが似つかわしい点では一致していたようです。

このお寺も秀吉が焼いてしまい、基礎の石しか残らなかったと聞かされました。日本からの侵略者は民衆まで襲い、凌辱し、耳をそぎ取ったりしたようです。何もかもが先祖か親元のように見える国を侵略したエネルギーや意図はまだしも、なぜそこまで残忍になれたのか、と首を傾げざるをえませんでした。
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