徳山ダムと豊かな歴史 03/09/23

   幾度もよい機会に恵まれながら生かさずに心残りになっていることが誰にでもあるはずですが、私にとっては徳山ダムの見学がその一つでした。このダムは、私が短大に勤めることになった遠因だけになおさらです。お誘いを断りに行った日に、このダムの底に沈む身にある幾本かの巨木が短大の「瞑想の森」に移植されることになった経緯を知り、なぜか心を打たれ、首を縦に振ってしまったのです。それら巨木の故郷をこのたび見学してきました。県主催の親子で学ぶ環境教育講座・ぎふ地球環境塾が見学会を用意したのです。この塾の副塾長を務めている関係で、塾の子どもや父兄に紛れ込み、車なら岐阜羽島駅から1時間ほどでたどり着けるようになった工事現場を訪ねました。

 現場は、昭和30年代からダムの適地として目されていました。51年に公団が引き受け、今の見積もりでは3550億円を投じ、完成を目指して大勢の人が懸命に働いていました。完成したらダムのてっぺんになるであろう当たりから底を見おろすと蟻のように小さく見えた車が、底に行ってみるとタイヤの直径が2・8mもある90トンダンプでした。一帯は無機質な岩石や赤土の世界となっており、巨木があった場所はおろか、巨木を支えた豊かな生態系があったことさえ連想できない状況でした。

 この多目的ダムは、100年は機能するようですが、日本では最後の巨大ダムになりそうです。適地はそう多くはないでしょうし、仮にあっても自然のまま残す方が、未来世代だけでなく自分たちにとっても有意義であったことに私達はいづれ気付くに違いないからです。発展のための開発だと信じていたことが、取り返しのつかない破壊であったと気づき、悔しい思いに駆られるのではないでしょうか。それはともかく、発電のためには満水にしたいところですが、洪水に備えるには空にしておくべきでしょう。50年とか100年に1度の洪水に備えるには堆積土砂の処理も欠かせません。

 底に沈む藤橋村には、大は147世帯の徳山集落から小は31世帯の塚集落までの8集落が点在し、466世帯1560人が住んでいました。331世帯は5カ所(最多は83 世帯から最小は31世帯)に分かれて集団移住し、残る135世帯は個人移転しました。藤橋村では縄文時代の遺跡や遺品が出たそうですが、電気が通じたのは1963年のことだし、水田に恵まれない山間だから主食はトチの実だったと聞きました。移転や移住をした人々の生活は便利になったことでしょうが、失なったものも大きかったはずです。とりわけ、千人からの人々が代々にわたって自活してきた生活空間を永遠に失った意味は大きかったと思います。持続性のある循環型社会に立ち向かうには、こうした自給自足を可能 とする自然条件こそが、未来世代に残すべき最大の贈り物であるはずです。

 帰途は、講演で岐阜に来ていた東京の友人と岐阜羽島駅で落ち合い、わが家まで足を延ばしてもらいました。お蔭様で心行くまで歓談したり、朝食を保津川縁でとったり、壬生寺や源義経が旅の安全を祈願した首途(かどで)八幡宮を訪ねたりして、夏休みを印象深く締めくくることができました。同時に、その翌々日から始まった学校も印象深く感じました。学長になった年の夏休み明けの日を思い出したからです。藤橋村から巨木を移植した「瞑想の森」がすっかり様子を変え、名称まで変わっており、身震いをした思い出です。だから私は、思い通りになるわが家の森をより一層緑豊かにしたのでしょうし、学校をISO14001認可取得学校にしなければいけないと思い詰めたのでしょう。

 

周囲3・4mの榎(えのき)です。藤橋村で骨を埋めた多くの人々が見上げた頭部は、道なき道を10トントラックで運び出す関係で切り捨てられています。榎をキャンパスに植えたいなら、もっと元気な木をもっと安く植えられるはずとの声もあったことでしょう。だが私には、ダム湖に沈む多くの野生生物から「私の分も長生きしてね」との喝采を浴びながら送り出された古木のように見えたのです。

周囲2・5mの桑(くわ)の古木です。大勢の村人がこの桑の実を食べたり桑の葉で蚕を育てたりしたことでしょう。おびただしい数の蚕が提供した繭は村人の衣生活や生活自体を支えたでしょうし、厳しい冬などは無数の蚕が村人の命をつなぐ蛋白源として食されたに違いありません。きっと大勢の村人が、この木にも手を合わせながら土に帰っていったのではないでしょうか。

初めて私が目にした頃の「瞑想の森」です。私はここに、学校の思想や教育の方向を見たような思いとなりました。やがて「AKS(明日の環境を考える)クラブ」を立ち上げ、クラブ員と毎年近隣住民を瞑想の森にお招きし、「ホタルを見る夕べ」を開いたりしました。その後、瞑想の森がすっかり姿を変え、名称まで変えられる事態を迎え、学生や近隣から私は集中攻撃を受けました。学長の権限外とか知らなかったとは言えず、屁理屈を述べながら苦しい思いをしたものです。ホタルを見る夕べも出来なくなりました。
この当たりにあった藤橋村は、私たちが住む宇宙船地球号が育んだ一つのオアシスであったと見てよいでしょう。その1000人からの人々が永続的に自活できる小宇宙、つまり人間を頂点とした食物連鎖を支えてきた豊かな生態系は最早ありません。もちろん「魚つき林」と呼ばれる下流の生態系などを豊かにする原生林やその機能もそこなわれてしまったわけです。
90トンダンプはタイヤの直径が2・8mもあり、1リットルのガソリンで180メートルしか走れないそうです。この1台1億6千万円のダンプカーは都市繁栄のために貢献していました。他方、都市の人々の中には、巨費を投じて何人かの人々が自活できる宇宙ステーションを研究しています。やがて私たちは、「私たちの分も長生きしてね」と何十人とか何百人とかの人間を宇宙ステーションに送り出すことになるのでしょうか。
700年間途切れることなく続けられてきた壬生狂言で有名な壬生寺の狂言舞台です。壬生菜とも縁のあるお寺です。わが家で壬生菜の種をまき直した翌々日に訪ねました。壬生寺のことはホームページでも知り得ますが、わが家の壬生菜が株を太らせる頃に、私の感じた壬生寺を語りたいと思います。その頃にはこのお寺で秋の狂言が演じられていることでしょう。
首途八幡宮の宵宮祭の一コマです。歴史にも詳しいアイトワ塾員の舞鶴さんらが奉賛会を結成し、「旅行安全の神様」としての御利益を再発掘した小さな塚の上に建てられたような風情の神社です。源義経もここに立って旅の無事を祈願したに違いないと考えたり、この塚は誰かの首塚ではないかと妄想を逞しくしたりしながら手を合わせました。ホームページも立ち上がったようです。
http://www.nishijin.net/kadodehachimangu