草抜きとストラテジー 03/12/15
美しい朝焼けからこの週は始まりました。温かい師走のおかげか、せいか、初めてヤーコンが咲き誇りました。これまでは開花しても、霜にやられてすぐに萎れていました。小さな黄色い花ですが、とても目を引きます。見事に咲いた姿を一度は見たいものだと思っていましたから、嬉しいような、喜んではおれないような、変な気分です。
野草もむくむく育っています。ホトケノザ、オオイヌノフグリ、スズメノカタビラ、ハコベが主ですが、ヒメオドリコソウも出ています。火曜の午後、妻はニンジンを間引きながら草取りをし、私はラッキョの畝の除草をしながらヒメオドリコソウの苗をポットに移しました。実は、エンドウを植えるために開墾したところがヒメオドリコソウの小さな群生地でしたから、新たなところに移してやろうと思っています。
草とりをしながら、秋口にもらった知人の便りを思い出しました。親元の田舎に引きこもった彼女は、草木染めをしようと思って周囲を見まわし、驚きます。休耕田が多くなり、一帯には草場が増えたのに、染めの材料に使う草が取れなかったのです。それは、農家が、草が少し伸びると髭剃りの感覚で刈り取ってしまうからだそうです。彼女は庭に生えた草を放っておいて非難されます。そこで彼女は、野草と農家の関わりに興味をもちますが、農家は異常なまでに草を嫌っており、草の名を知らず、すべて「クサ」で片付け、害虫・益虫を問わず、虫はすべて「ムシ」としか呼ばないことを知って嘆きます。そして、江戸時代の大名たちは、百姓にものを考えさせないために、きれいに草をとることを命じていたようだ、と知ります。それは隠し田を作らせないためでもあったとか。彼女は、「草刈りは気楽にやれるものです。何も考えずに刈りさえすればよく、成果は必ず上がりますから仕事をした、という気にさせます」と、述べた上で、「希望がないから草を刈る、草を刈るから希望が見えなくなる。悪循環です」と、つないでいました。
彼女の話が本当とすれば、私の場合とは随分異なります。私は、何か考え事をしたいときによく草抜きをします。考え事がないときでも、草抜きをしていると、いつの間にか、どのような草が増えたのか、あるいは減ったのか、と気にし始めたり、どの草がどの虫の餌なのか、と興味を沸かせていたりして、いつの間にか考えごとをしています。
かつて留学生の受け入れ家庭になりましたが、その時の記憶もよみがえりました。アメリカの女子学生に草抜きを手伝ってもらうために、一緒に「草抜きをしよう」と誘ったら、いきなり「ストラテジー(戦略)を教えてください」と質問された思い出です。即座に私は、「まず種を結んでいる草を抜き去る。次に、花を着けているのを」と、自分が守ってきた草取りの優先順位を教え、「メイクセンス」と感心させたことがあります。たぶん彼女は、どこからどこまで抜くのか、といった除草範囲でも尋ねていたのでしょう。
今週も、楽しいことが重なりました。すてきなお客さまを迎えたり、嬉しい贈り物をいただいたり、新しい仕事を始める人の相談に乗ったり、ぎふ地球環境塾という親子連れの勉強会の講師を勤めたりしたからです。お客さまは、大垣の友人が、ビデオ作品を上手に作る名人ご夫妻、木の実人形作家、そしてミニコミ誌の編集人の4人をアイトワにご案内くださったのです。贈り物は、私の好物を知っている身近な人たちに持参してもらった牡蠣、西瓜、カステラ、辛子明太などです。庭仕事は、草抜きの他は、松の剪定に手を着けたていどです。原稿の最後の仕上げに入ったためです。
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