黄檗山と原風景  04/02/15

 鼻風邪をもらうことと石を手に入れることから一週間が始まり、原風景を偲ぶことで終わりました。石は、建築廃材の中から出てくる石を拾い集め、小型ダンプ一杯分を運んでもらうように頼んであったものが、届いたのです。鼻風邪は、妻からもらったようです。だから母屋の居間にホーム炬燵を出してもらい、校閲から届いた校正刷の手直しから一週間が始まり、週末は寝転んで原風景に想いを馳せることで終わったわけです。

11日の休日は、久しぶりに召集がかかった都市計画や地域計画にかかわる人が中心のサークルに加わり、宇治の近くにある名刹、黄檗山萬福寺を訪ねました。寺に到着し、先ず普茶料理で昼食となりましたが、ビールや熱燗を注文した上に「高野山・般若湯」という美酒を持ちこまれた方があり、おおいに気勢があがりました。私は、学校の仕事を無事に終えた安堵感でしょうか、昼間からこんなに酒をあおったのは初めてだと思います。

上機嫌で境内を散策したのですが、黄檗とは「キハダ」の木のことだと教わったり、萬福寺にある経典は紙をキハダの樹液に浸して虫が入らないようにしたから黄色いことを学んだりしました。キハダはわが家にもありますが、漢方で胃薬に用いるダラニスケは、キハダの甘皮の樹液を煮詰めたものでしょう。念願のチーク材で造った本堂や巨大な魚板も見ました。魚板は、時を報じる折に叩いて音を出すもので、木魚の原型だといわれます。実は、それらはかつて父から聞かされていた代物で、一度は見たかったのです。歳をとってから父はあまり外出をしなかったのですが、なぜか黄檗山萬福寺を訪ね、珍しく印象を語っていたからです。好天にも恵まれ、とてもよい一日になりました。

木曜日は終日妻の来客で賑わい、私もなんだかバタバタしました。午前中は、大垣の知人ご夫妻に来ていただき、妻が個展会場で使うビデヲの追加撮影をしてもらいました。午後は、妻はお招きした友と一緒に味噌を仕込みましたが、ご主人を私も存じ上げていますから、お茶の時間は加えてもらいました。その間、義妹は不調のコンピューターを持参し、私の友に来てもらって印刷ができるようにしてもらいました。妻の個展用案内状の宛名を印刷するためです。夕食は妻の友が持参してくださった中華ちまきでしたが、とても美味で、「ご主人も今ごろ賞味されているかな」と、忙しい人に想いを馳せました。

金曜日は好天でしたから、テラスで日向ぼっこをかねて長鉢に植えてあるサクラソウの手入れでした。黄色くなった葉を取り除き、ニガリを混ぜた混合液肥を作り、水で薄めてやる作業ですが、9鉢もありましたから半日仕事になりました。わが家では鉢植えの土をリサイクルして用いていますから、微量金属が不足がちだとみたのです。混合液肥を作ったついでに、温室や風除室などで冬越しをしている鉢植え植物にもやりましたから、4時のお茶の時間までかかりました。その間、妻はコールタールを塗ったストーブに火を入れ、乾燥させていましたが、黄色い煙が立ち込め、舗装工事の現場のようでした。

週末は、次の本の編集をしていただいている人から、本の題が私の提案した『次の生き方』になったと知らされました。私は逆提案を受けていた『エコから始まる仕事と暮らし』の方が気に入っていましたから、せめて副題にでも使わせていただきたい、とお願いしました。縁側で日向ぼっこをしながら校閲の終わった校正刷りを再読し、個性の発露と時代の潮流がうまく合致する人生について考えながらまどろんでいると、先週パン屋さんを訪問した際に見たわが家の庭の原風景が瞼に浮かんできました。

 

 

 

 

建設廃材から出た石ころです。人形工房の建設で知り合った建設会社の社長さんに届けてもらいました。とても安いのがとりえですが、大小さまざまですし、大部分の石が瑕を持っていますから、余計に生かし方が面白いのだと思います。こうした廃材を生かせるのは、社長さんと友だちになれたからでしょう。

普茶料理の一部です。蒲鉾は長芋で、鰻の蒲焼は麩で造ってありました。こうした工夫に感心しながら、大枚を払えるわが身をありがたく思いました。ここに、高野山・般若湯が添えられたわけで、楽しくならないはずがありません。昨年の秋、友に振舞ってもらった鉄鉢(てっぱつ)料理は、普茶料理を見事に盛り分けたものです。
この大雄宝殿(だいおうほうでん)の伽藍を、父はどこから見上げたのだろうかと考えながら、古人の熱気に圧倒されました。古人は、ジャンクなど帆船しかなかった時代に、東南アジアから大量の巨大なチーク材を運んできたわけです。
 
久しぶりに再会した友は、作務衣(さむえ)の上着をベースにした素敵な装束でした。ジーンズと靴はアメリカの考案ですが、その生地デニムは、フランスのニーム地方で考案されたサージ、セルジュ・ド・ニームです。ケープはフランス製でしたが、メキシコのポンチョとイギリスのマントをヒントにフランスで考案したのでしょう。萬福寺は、中国の僧が来朝し、東南アジアのチーク材も用いて、日本で作りました

手入れをしたサクラソウです。手バサミを片手に、枯れたり黄色くなったりした葉を切り取り、見かけをよくするだけでなく、風通しをよくして病気にかかりにくくしたわけです。微量金属をやりましたから、そのうちに葉が青々と茂るに違いありません。

先週、ドイツパンのベーカリーを訪ねましたが、そのついでにわが家の原風景となった庭に出てみました。毛虫がとか、落ちががとか、日陰になるなどいろんな理由があったのでしょうが、ずいぶん樹木が減っていました。残っていた名も知らぬ落葉樹の大木もいずれは姿を消すことでしょう。種の入った小さな実を3つ拾って帰りました。この写真は喫茶室から見た光景です。右の大木の種を拾いました。

かつて藩邸であった屋敷の建物も随分傷んでいます。私が出入りした玄関が見当たりません。屋根に突き出す大きな採光窓を設けた部屋があり、従兄弟は書斎に生かしていましたが、今も残っているのでしょうか。