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スリランカの旅 04/08/01
27日の朝、目覚めると庭はアブラゼミとキリギリスの鳴き声で割れんばかりになっていました。前日までの8日間、スリランカの旅で家を空けていたのです。農業問題に造詣が深い知人やスリランカ出身の知人と一緒に訪ねたおかげで思わぬ収穫もありました。知人たちはお茶への興味やボランティア活動が動機であったようですが、私はサルボダヤ運動のその後を知ることが狙いでした。『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』でかなり詳しく取り上げた運動です。
欧州から始まった工業社会はやがて破綻しそうですが、その渦中にいるとそうとは気づきにくいものです。サルボダヤ運動は、農業社会から工業社会を眺めながらその破綻を予見した人が、数10年も前から工業社会に代わる「次ぎの社会」を目指して活動を始めています。スリランカは20年来、植民地政策の余波とも言うべき民族扮装にさいなまれていますが、サルボダヤ運動は工業社会を経ずに農業社会から一足飛びに次の社会へ移行する運動であり、社会制度や体制だけでなく精神的にも自立を目指す真の独立運動、といってもよいでしょう。慈悲など仏教の教えを尊重し、助け合いの精神を育み合いながら、土地柄に則した持続性のある生きる力を養おうとしています。スリランカには3万の村がありますが、その半数がすでにこの運動にかかわるようになっており、世界最大の非政府組織・NGOに育っている、といってもいいでしょう。
コロンボから旅は始まり、サルボダヤ運動の本部があるモラトワをはじめ、ヌアラエリアなど5地点を車で訪ねる旅でしたが、スリランカにある7つの世界遺産のうちの3つ、キャンディ、ゴール、そしてシーギリアを含んでいました。
キャンディは、ポルトガルから始まりオランダを経てイギリスへと役者が代わった侵略に翻弄されながら、最後の王朝が首都にしていたところで、スリランカの京都とでもいえそうな街でした。そこでは有名なペラヘラ祭が始まっていました。阿波踊りの「連」のように数10人のグループが次々と登場するのですが、連毎に着飾った象を引き連れており、異なった服飾や躍りを披露します。象も時にはリズムに乗って躍り出します。21日から始まり31日まで連夜続くそうですが、最終日は全スリランカから参集する躍り手は1万人にも達し、参加する象の数も100頭から時には200頭近くにもなるとか。その中で一番立派な象がお釈迦様の「犬歯」を背にして街を練り歩くわけです。2600年ほど前に死んだ人・釈迦の遺徳をしのび、一本の歯を大切にして毎年10日間も盛大にお祭り騒ぎを繰り広げ、どうしてかくも熱狂するのか、と考え込まされました。興奮のあまりに倒れ、目の前を担架で救急車まで運ばれる老婆さえいました。
サルボダヤ運動の本部では昨年の暮からグローバル・エコヴィレッジ・ネットワークと呼ぶ活動を始めていました。世界に向けて、この運動を正しく理解してもらうための活動です。工業社会の価値観に馴染んだ人の目から見ると、サルボダヤ運動は理解の幅を超えています。だから、時には偽善的に見られるなど誤解されたり奇異の目で見られたりするからでしょう。
9日振りでわが家の夕食を口にしましたが、庭のゴーヤと知人に届けてもらったカモナスがふんだんに使われていました。翌朝は、トマト、ミョウガ、モロヘイヤ、二度目のキュウリが最盛期のようで、サラダや味噌汁の具や漬物などにたっぷりと生かされていました。留守にしていた間に、アイトワを訪ねた長野の修学旅行生から感想文が届いたり、秋田の知人が立ち寄ってくれたり、妻がポッポとより一層仲良しになったりしていました。愛犬はすっかり冬毛を落としていました。その間も雨らしい雨はなかったとかで、例年なら溢れているはずの自然水を溜める水槽が水位を異常に下げています。このままだとこれから深刻な水不足問題に悩まされそうです。
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帰国した翌朝、妻は「野菜って個性的なのね」との言葉を添えて、目覚めたばかりの私に収穫したての野菜を見せました。同じキュウリの蔓から細くて長いのがとれるだけでなく、太くて短いのもできることがあるのです。スリランカでも毎食トマトやキュウリを食しましたが、わが家の味には遠く及びませんでした。
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わが家から古いメガネもなくなりました。これまでに5000もの老眼鏡をスリランカの老人に届けてきた人の活動に協賛し、余っていた鉛筆などの束と一緒に持参したのです。その引き渡し会場で、前外務大臣は突然数分間もスピーチを中断しました。後で聞くと「異教徒の声にも耳を傾けたかった」とのことでした。集会には仏教徒が多く集まっていたのですが、街からコーランを唱える声が流れてきていたのです。
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キャンディでは着いたばかりのホテルのロビーで結婚披露宴に出くわしました。まずロビーに敷かれた白い布の上を静々と新郎が入場し、続いて白い布が取り除かれた床を新婦が入場しました。両者の服装は参列者と代わり映えがしない礼装でしたが、翌朝は王様と王妃様のような服装で現れ、記念撮影に収まっていました。夫婦になる儀式よりも真の夫婦になったことを祝う気持ちの方が強いのでしょうか。
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ペラヘラ祭の一こまです。最終日がクライマックスで、釈迦の左の糸切り歯を巨象が背に乗せて街をねり歩くとか。スリランカに1600年以上も前にもたらされたという仏歯が、いつしか王朝の証となりました。イギリスは1818年にこの仏歯を手に入れて統治の正当性を主張し、やっと民衆の武力的抵抗を収めたといいます。
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パームヤシの実です。その製油工場で撮りました。シナモンに目をつけて乗りこんできた白人は、コーヒーのプランテーションに手を出し、それに代えて茶の苗木に植えさせていますが、そのときがセイロン(外からの呼び方)紅茶の歴史の始まりです。その後、ゴムの苗木も植えさせています。国名をスリランカ(光輝く島)と自称するようになってから、パームヤシのプランテーションを始めたようです。でもそれは植民地政策の継承でしょう。
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インド洋の波です。遠くを見ると静かに凪いでいますが、波打ち際はとても荒く、海に恵まれない京都に住む私にとってはとても魅力的でした。夕刻、波打ち際に一番近い野外テラスの椅子に陣取り、日没を楽しみながらビールを飲みました。大瓶一本320ルピー350円ほどです。
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帰国した翌朝、ポッポが「羽づくろいをしあっている」と聞かされ、縁側に出てみますといつものように二羽そろって遊びに来ていました。今年は、トウモロコシを焼いて食べる美味しい時期をスリランカの旅でふいにしてしまいましたから、ポッポの餌を作っていたようのことになってしまいました。
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