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器用人と独立心 04/08/17
14日まで、また家を空けていました。前回のスリランカでは専用車で5星ホテルを渡り歩きましたが、今回は中4日の休養だけで飛び出しながら、長距離バスや夜行列車に揺られ、トランクを引きずり、バックパッカーが泊まる宿を訪ね歩く日々でした。ある学会の仲間3人と、それぞれなりにテーマを心に秘め、多民族国家であるベトナムとラオスを旅したのです。その間も、わが家の一帯では豊かな雨に恵まれず、庭は干上がっていました。幸なことに、帰り着いた日の夕刻に少し雨に恵まれ、一息つきました。お盆空けから庭仕事に立ち向かおうと思います。
ホーチミン(南ベトナム時代の首都サイゴン)から旅を始め、ラオスに移動して首都のビエンチャンと古都のルアンパバーンを経て再びベトナムに戻り、統一後の首都ハノイと古都フエの他にダナンなどを訪ねました。11年前に訪ねた時は、ベトナムの街は自転車の洪水でしたが、今はオートバイに代わっています。成金が増えたのか高級車も目立ち、百貨店がきらびやかになり、逆に街の見かけは画一化しているようです。以前と変わらなかったのは暑さです。ラオスではラオビールを、ベトナムではサイゴンビールやハノイビールを昼前からあおる旅になりました。
もちろん私は、スリランカの旅と同様に「次ぎの生き方」に焦点を絞りました。私たちが豊かで幸せになるに従って、環境問題や南北問題などが次第に解消するような新しい豊かさや幸せの追求です。おのずと、家族や仕事や男女のあり方とか、自然や資源と人間の関わり方などに興味が沸きました。サンダル履きでうろつきましたから足の甲が日に焼けてトラ縞になりました。
ルアンパバーンへはビエンチャンから日に一本の急行バスで向かったのですが、途中で故障。やむなく、これも日に一本とかの乗合バスに拾ってもらいました。おかげでまだ人間の器用さを維持している人の気概に触れることができました。ハノイからダナンまでは夜行列車を選び、フエには自動車で引き返しました。かくして、北の人や物資を南に輸送する生命線であった標高600mのハイヴァン峠を、汽車と自動車で越えることができたのです。フエでは、連日アメリカ軍に猛攻されながら夜間に補修して守り通したというノンビエン橋を歩いて往復しました。
戦争証拠博物館を再訪しました。改装中で、日本人を含む数名の著名写真家の作品展でお茶を濁していましたが、込み合った会場は無言の世界でした。街やホテルでは傍若無人に見えがちの日本の若者も、神妙な顔で「戦争はいけない」「イラクが二重写しに見える」「今の平和をかみしめた」などと記帳していました。そこで私も「今の私たちは、武器を用いない巧妙な戦争を繰り広げているのではないか。南北問題を深刻にして貧しい国の人々の希望を奪いながら、私たちまでが未来を見失いつつあるようだ」といったようなことを記しました。
一泊10ドルといった安ホテルは民宿から始まったようで多くは家族経営です。室内は靴を脱ぐことになっていますが敷居が低く、白人の中には脱ぎ忘れる人がいます。同様に日本の若者にも、脱がずに推し通す人がいます。また、電気代が高いようで、冷房を使えば5ドル高といった具合です。問題は、土足に気づかない人たちの多くは冷房や電灯を消さずに出掛けたり、乱したベッドさえ整えずに去ったりすることが多そうなことでした。
帰国の便は23時発でした。だから、夕食前に着替えてさっぱりしたかったのですが、チェックアウトは11時です。やむなく、荷物をいつでも放り出してもらえるようにして短パンツ姿で外出しました。博物館や雑踏する市場などを巡り、夕刻に汗みどろになって帰ってみると、私の部屋だけ「荷物はそのままにしてある」といいます。バスタオルも私が使ったままでした。おかげでシャワーを浴び、スラックスやズック靴に着替え、夕食や帰国の途につけました。
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べトナムはフランスだけでなく、アメリカも追い出して独立しましたが、撃墜した軍用機のタイヤでヘップサンダルを造ったりして戦っています。アメリカはビルを2つ潰されただけで理不尽な報復に出ましたが、日本は都市を2つも壊滅されながらどうしてゲリラ戦に持ちこめなかったのか、と呟やいた人がいます。それは、一億一心など掛け声だけで終わる標語を乱造したり東洋の中でさえ孤立無援になったりする日本の弱さが関係していたのではないでしょうか。
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68の部族や民族から成り立つラオスは、ベトナムにくみして米軍の猛爆を受けています。鍛冶を得手とするモン族の村も訪ねましたが、米軍が用いていたバッテリーケースを焼入れの容器に活かし、米軍が捨てたドラム缶を原料にした製品も作っていました。爆弾の破片や戦車の残骸も原料にしたことでしょう。火入れには、鞴(ふいご、手で操作する送風道具)に替えて、落ち葉掃除用の小型のブロワーを活かしていました。なおモン族は、アメリカの誘いにのってくみし、アメリカ敗退後はつらい立場になっています。
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ルアンパバーンまで10時間の急行バスには乗組員が3人もいました。数時間走った山また山の中で、冷却水を送るパイプが破れたのです。最寄りの集落に助手を走らせた運転手は、副手と二人で借りてこさせた鋸(のこ)と竹を使い、炎天下で補修しました。その間、助手は水を求めて10回余り村に走っています。再出発したものの、エンジンが焼けていたのか坂を登りきるだけの馬力が出ず、小さな集落までバックで引き返し、乗合バスが来るのを待たせました。
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ラオスで急行バスが鋸などを借りるために立ち寄った10軒ほどの小さな山間の集落でさえ、ほぼ自己完結しているようでした。家畜は、ヤギ、ブタ、ニワトリ、ヒチメンチョウ、アヒル、そして犬を放し飼いにしていました。水は谷水を生かし、トウモロコシなどは山肌の焼畑で、米は谷間に造った棚田などで作っていました。
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人里はなれた大きな村には寺があり、細長くて大きな倉庫がありました。中には、東洋文化の産物の一つ、巨木をくりぬいて造ったと思われるペイロン船が保管されていました。そのペイロン船を乗せる台には、西欧の科学文明の産物、米軍が残していった巨大ゴミ、古タイヤを活かしていました。
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紙を手で漉いている村も訪ねました。わが国では槽(ふね)に紙の原料を溶き込み、簣(す)で次々と漉きあげて和紙を作りますが、その村では簣に紙の原料を1枚分ずつ溶いて水を切り、紙を作っていました。もっと驚いたのは、槽にはビニールのシートを、簣にはビニールの網を活かしていたことです。活かせるものは何でもめいめいが器用に活かしてしまうようです。
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エッフェル塔を造った人の作といわれるノンビエン橋は傷だらけでした。その補修の跡を見つめながら歩いているうちにさまざまなことを考えてしまい、胸が熱くなり、困りました。だから帰路は、考え事をしないために歩数を数えたのです。2504歩、全長1500mはありそうです。渡りきった時に、小泉さんが言う「いろいろ」は、多様性ではなく「でたらめ」と同義語だったんだ、と気づきました。
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54の民族や部族からなるベトナムでは、戦争時に女性が陽になり陰になり一心になって大活躍した、といいます。日本のカメラマンも大活躍しました。その頃はどのような自己責任論がうずまいていたのでしょうか。それはともかく、ベトナムでは二つの戦争を通して独立心に燃えた女性は地位を向上させたといいます。日本のカメラマンは、世界に絶大な影響力を及ぼしています。
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