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助け合いと押し付け合い 04/08/22
アイトワの休日、妻との連携プレイで庭仕事ができる火曜日から畑に出ました。トウモロコシや第1次のキュウリの畝を冬野菜の種がまける状態にする作業でしたが、妻が実をもぎ取ったあとのトウモロコシの残滓を私が抜き去る。妻がキュウリの蔓を取り去ると私が支柱を解体する。妻が草を抜いたあとを私が耕し、妻が運んできた堆肥を私が鋤き込む、といった具合です。二人が助け合って役割分担すれば、作業が二倍以上にはかどるのです。
役割分担は、今回訪ねた2つの国でも見ましたが、前回の旅でも見ています。スランカでは幾種かのプランテーションを訪ねましたが、二通りの分担がありました。一つは男女の分担です。ゴムと茶園でいえば、茶摘みは女性が、ゴムの樹液採取は男性が受け持っていました。前者は炎天下での単調な反復作業。後者は日陰の仕事ですが、樹皮に溝を掘ったり、にじみ出る樹液を採取する容器を仕掛けたり、それを集めてバケツに移し、重いバケツを運んだりする仕事です。この二つの異なる仕事は、以前に記したように、ノルマが決められており、果たせば同一賃金、ノルマを超えれば報奨金の対象です。もう一つの分担は、出自や階級もかかわっているようです。こざっぱりした服装の屈強そうな青年が、みすぼらしい身なりの痩せこけた年寄りをアゴで使っていました。スリランカでも、スリランカから始まったサルボダヤ運動に参入した村に行けば、プランテーションとは異なるほほえましい役割分担が見られることでしょう。
ラオスでは、絹織物造りやろうけつ染だけでなく、紙漉き、レンガ焼き、淡水魚の養殖などを見ましたが、モン族の村で見た鍛冶と蒸留酒造りの家族労働に、私は心を引かれました。鍛冶でいえば、覗いた5軒がいずれも似た役割分担をしていました。重そうな槌を振り下ろす役は妻や母や娘といった女性が、槌で打たれる赤く焼けた鉄を操るのは夫や息子や父などの男性が担当です。また、送風機の調節や燃料の補給をして鉄を「火入れ」して真っ赤にする役は女性が、打ちあがった鋼を水槽に突っ込んで「焼き入れ」する役は男性です。
私たち夫婦は、とても面倒で苛酷で危険だと言われる仕事にも携わりますが、役割を分かちあいながら楽しくやっています。かつてわが家でも鍛冶の真似事もしたことがありますが、そのときにも同じような役割分担をしていたことを思い出し、ほほえましく思いました。この冬には、モン族の人たちの知恵にも学び、妻と二人でまた鍛冶仕事をしようと考えています。
ベトナムでは、米軍が交通の要衝として猛攻撃したノンヴィエン橋やハイヴァン峠も訪れました。11年前に入ったクチのトンネルも思い出し、空爆や機銃掃射にさらされた輸送や補修や応戦がいかに苛酷であったのかを想像しました。格段に優れた兵器に恵まれ、組織化された米軍になぜ勝てたのか、と考えました。それは己の苦楽や損得や生死までを二の次にするほど個々の人間を奮い立たせる何かが働いていたからではないでしょうか。その何かを、今の私たちは、平和の維持や産業社会での活動に生かすことが求められているのではないでしょうか。工業社会に馴らされた目にはオカルト的に見えそうですが、本当の合理がそこに見出せそうです。
そのベトナムも、今や俗化しつつあるようです。規格化された画一的な品物を大量生産し、その大量消費に憧れたり大量販売を促したりして大量廃棄に結びつけ始めているからです。それはゴミを増やしたり水や空気などを汚したりしながら環境破壊や資源枯渇などに結び付くだけでなく仕事や責任を押し付け合いをし、やがてはリストラや内部告発におののいたり、家庭崩壊や自殺者を増やしたりする利己的な競争社会に自分たちを陥れかねない、とはまだ気づいている人は少ないようですし、気づかせようとする人がいても、気づきたくないようです。
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投網漁の船では、舳先で網をうつのは夫が、船尾での操船は妻が担当していました。父の手さばきを見学していた息子は、大きな魚が網にかかるたびに父から受け取り、母親の近くに走って生簀に入れながら、岸の方に視線を向けていました。私は遠方から眺めていたのですが、目があうと息子は手を振り返してくれました。
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この度は、街角でフォー(うどん)やバケットをしばしば食しました。バケットは、炭火で温め、トマトやハムや魚のペーストなどの中から好みのものを挟んでくれます。フォーは、牛やブタあるいは海老やかしわのいずれかに野菜がそえられます。これらが邦貨にして50円程度です。不思議なことに、缶コーラやプラスチックの袋入りスナック菓子の方が高めです。
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旅行中にいろんな便りを頂いていました。その一つに、連携プレイを実証し、その成果に気づいた人からの便りもありました。このお二人は、つぶす(消費する)喜びではなく、創る喜びを理解し合える間柄であり、お互いにかけがえのない関係になっておられるのではないでしょうか。
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ハノイからフエに至る車窓から、墓地がしばしば望めました。ある家族はキリスト教一家とみえて10ばかりの墓の多くに十字架がついていました。仏教寺院のような屋根のついた墓群もありました。ベトナム戦争は、こうした墓を造って人を葬る国の人を400万人も殺したわけです。それは太平洋戦争で死んだ日本人の数を100万人も上回ります。ちなみに、ベトナムで死んだアメリカ兵は10万人です。
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街角で墓標屋をよく見かけました。墓は個人単位で造るとかで、故人の肖像などを石に掘りこんでいます。郊外では、石棺屋も見ました。土葬です。このように人の死をいたむ国に、米軍は北爆だけで440万トンからの爆弾を投下しましたが、気力をなえさせることができなかったわけです。その重量は太平洋戦争で落した爆弾の2倍以上とか。
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戦争の傷跡はほとんど残っていません。この池に落ちたB−52の残骸は、拾って資源とか原材料として活かすには面倒過ぎるから放置されているだけではないでしょうか。
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ドッグフードと同じように誰が誰のために作ったのか分からない人間用の食べ物や、捨てても腐らない容器や包装に入った品が氾濫し始めていました。それが、高尚な品のように見られています。その意識が、環境破壊や資源枯渇、人心荒廃や南北問題などに関わらせよいことに気づいている人は少ないようです。そういうわが家でも、私たちのシャンプーは500円の品ですが、愛犬用は頂きものとはいえ1900円の品です。
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