松葉酒と月見と大雨と 04/10/03

 週の初めは大垣づきました。大垣時代によく訪ねた蕎麦屋さんのご夫妻が訪ねてくださったり二つの会議のために大垣に出かけ、その機会を生かして知人の社長就任を祝ったりしたからです。私より年上の蕎麦屋のご主人と私は、あちらこちらですれ違っていたようです。ご主人は京都の壬生寺あたから大垣に疎開したとのことでしたし、西宮の門戸厄神に知人をよく訪ねたとのことでした。私は西宮のその辺りから京都へ疎開しています。ご主人によれば、東京と大阪が爆撃された以上は、次は3大都市の京都だと誰しもが見ていたそうです。また当時は、壬生寺のあたりから西、わが家のある嵐山の方向は一面が田畑であったとか。

 西宮から京都に疎開した日のことを思い出しました。四条大宮で乗り換えて郊外電車の嵐電に乗ったのですが、壬生寺のあたりから私は運転席のそばに走りより、背伸びをして窓に飛び込んでくる山の姿に見とれました。今では民家が建ち並び、終点の嵐山駅に着いても山は見えませんが、当時は見通せたのです。それまで私は、山は遠くに見える水色にベタッと塗り込めたようなものと思っていましたが、木が生えていたのです。ついに赤松の幹が一本一本見分けられるようになった時は、毎日山に入って駆け巡ろうと考えました。なんと母は、その山の裾野まで歩いて連れて行きました。小倉山でした。疎開先の伯母の家は、赤松の幹に触れられそうなところにありました。今や伯母や母は亡き人ですし、妻は当時の母より20歳ほど上回っています。

 水曜日は大変でした。昼過ぎまでは新しい村づくりの委員会やそのあとの雑談で「松葉酒」の話題に酔ったり夕刻は台風に備えて戸締りを悠然と済ませたりしたのですが、9時過ぎからバタバタ騒ぎになりました。夕食後、妻が居宅より坂下にある人形工房に降りて行った直後に助けを求めたのです。テラスが水浸しでした。いろいろな問題が重なっていましたが、結局は排水に対する妻の備えに問題がありました。事前に察知し、大きな問題になる前に何食わぬ顔で未然に手を打っておくのが経営でしょう。それができていなかったのです。ハンマーや排水ポンプを持ち出し、開かなくなっていた幾つものマンホールをこじ開け、応急処置で事なきをえました。

 木曜日は一転して月見びよりとなりました。西賀茂のはずれにあるひなびた正伝寺を訪れ、20人あまりの人たちとの宴でした。借景の比叡山の左脇から大きな月が昇り、拍手が生じました。月と山をこのように拝借する光景をつくり出した昔の人に脱帽です。でもすぐに、月が少し赤みをおび過ぎるていのが気になりました。本堂は狩野山楽の障壁画で囲まれていました。

 週末はノバトや鹿の鳴き声を聞きながらナツメの実を収穫したり温室にこもって鉢植えの手入れをしたりして過しました。ナツメは甘く煮てもらおうと思います。鉢植えは、六甲サクラソウやツボサンゴの植え替えでした。共に十数年も前から同じ株を育てていますが、とりわけ毎年刺し芽で更新させてきたツボサンゴには密かな満足感を覚えています。ポッポがしきりに鳴いています。まだ配偶者と出会えていないわけです。やっと妻も、ポッポが雄で、用心深かったのに餌食にされた方が雌であったと認めました。鹿が毎日のように出てきて高い声で鳴きますが、こんなことは初めてです。遠くの方で別のノバトもしきりに鳴いています。ポッポ頑張れ。

 小泉さんの人事が気になった週でもありました。国民アンケートの優先順位では取るに足らない郵政民営化にこだわり、人事権を振り回したように見えたからです。私もささやかな話ですが、人事権や給与査定権に関わったことがありますが、一度も振り回したことはありません。そうした力で引っ張る経営はどこかに無理なシワを寄せかねない、と思ったからです。ベトコンが組織的な米軍に勝てたのは、その逆で、人々の創造性を駆り立てたからではないでしょうか。



ゴーヤの新芽です。つるで実を熟れさせると、黄色くなって裂け、赤い種を落とします。本来は、翌年の5月ごろに発芽するはずですが、なぜか今頃に大量に発芽しました。妻はそれを収穫して朝食の一品にしました。苦みばしった美味しい炒め物となりました。

次郎柿の落ち葉です。友に送って手にとって見てもらいたいのですが、一緒に送れそうな他の収穫物がありません。今年は1週間も早く彼岸花が咲きましたし、季節を間違えるゴーヤの種もたくさんあります。きっと山も狂っているのでしょう。鹿が野に下りて来るのは久しぶりですし、配偶者を求めて近くで鳴くのは初めてです。
大根がここまで育っています。もう大丈夫でしょう。少しまく時期が遅れた、といっても1週間程度ですが、遅れた野菜は雨と日照不足にたたられて弱り、虫は弱ったものを襲うのが好きなようで、虫に食われて瀕死の状態になっています。わが家の畑らしく左側に自然に落ちた野菜の種が芽吹いております。
短大の学長時代に使っていた座布団です。妻の作ってもらいました。イザというときは頭巾になります。地震に備えていました。今は、この週記を書くデスクの椅子で用い始めています。妻は、異常が生じてから頑張りますが、私は難無きをうるために頑張りたいのです。この差が、いつも夫婦喧嘩の原因になり、私の叱り方がいつも悪いといって最後は妻に叱られ、それで帳消しになり、元の木阿弥です。

ナツメの実を収穫しました。リンゴのようにおいしく感じた敗戦後の食糧がなかった頃を思い出しました。太平洋戦争は、半藤さんの『昭和史』によれば、たわいない動機で国民をさんざんな目に合わせたようですが、さんざんな目にあわせながら生き残らざるを得なかった人にも、あるいはさんざんな目に合わされた気にもならずにすむ年頃であってよかった、と思いました。

プランターで育てた複数の野菜の若芽です。一本一本舌の上にのせ、歯で噛んで味わいました。大根はピリッと美味でした。最初は、味での見分けが困難でしたが、次第に香りも感じられるようになり、見分けがつけられそうになりました。最後に、ひとまとめにして口に放り込むと、とてもよい味でした。

庭の赤松です。春に手入れをすることにしました。新しい村づくり委員会の後で喫茶店にたむろしましたが、「納豆餅」や「松葉酒」が話題になったからです。赤松の若葉で美味しい飲み物ができるそうです。松葉と湯冷ましを瓶に詰めておくと、発酵してサイダーのようになる、と目を細める人がいました。「わしらが死ぬ前に、村を作ってほしい」伝承したい、との訴えです。