フリーダムかリバティか 05/01/30

 ケンの小屋の側にあるブッシュ(茂み)の手入れを始めました。自然生えの潅木と竹が競いあって茂り、ケンの小屋に覆いかぶさったりカリンやロウバイの成長を邪魔したりしていましたから、大胆に切り取ったり背を低く切り詰めたりする剪定を始めたのです。

 ブッシュといえば、アメリカのブッシュも思い出します。異常なまでの身辺警護の下に20分の就任演説をしましたが、45回も自由という言葉(フリーダム)を口にしました。それは世界のリーダーとしては失格だと示したようなものです。英語には自由に該当する言葉が二つありますが、リーダーが今標榜すべき自由はリバティの方ではないでしょうか。アメリカではコイン(硬貨)にはリバティの自由を刻み込んでいますし、かつてアメリカがイギリスと戦って独立を勝ち取ったときに「自由の女神像」をフランスから贈られていますが、その自由もリバティです。

 つくづく今、私は新婚時代にブッシュさんのような人が隣に住んでいなくてよかった、と思っています。リバティを追求するわが家では、欲望の解放を促しかねないフリーダムは抑制しがちです。だから土足で乗り込まれ「女房にフリーダム(自由)を与えてやれ」と怒鳴られ、ブン殴られていたことでしょう。今なら、妻も一緒になって立ち向かい「おせっかいは止しなさい」とか「内政干渉ですよ」とか「どこまで責任を取るつもりで勝手なクダをまきに来たのですか」と叫ぶことでしょう。でも、リバティの自由に対する理解や得心を十分に深めていなかった時期があったとすれば、一緒になって啖呵まで切ってくれていたかどうか心配です。

 家庭以上に、それぞれの国には深刻な事情があるはずです。とりわけアラブ諸国は深刻でしょう。アメリカ流の消費社会に国民が走り出したあとで油田が底をついたらどうなるのでしょうか。元のラクダの乳とヤシの実を常食とするような砂漠の国にすんなりと戻れるのでしょうか。そのときは同盟国としてアメリカは支援をする覚悟をしているのでしょうか。

 それはともかく、インド洋津波ではさまざまな教訓が伝わってきます。古人の言い伝えを守ったり土地柄に則した生き方に従ったりしたところの被害は軽微だったようです。「地震の後で潮が引いたら高台に逃げろ」との教訓を伝承していた人口27000人のウェ島では12人の、78000人のシルム島では7人の死者で済んだとか。他方、潮が引いた浜辺で跳ねる魚を見て捕りに走ったところは大被害を受けています。また、マングローブやヤシの木を残したところは被害が少なく、マングローブを切り開いてエビの養殖を始めたり、ヤシを切り払ってレジャー施設をつくったりしたところが大被害を受けたとか。アメリカ大陸にたとえていえば、先住民型の文化から入植者型の文明へと頭を切り替えた人々が大きな被害を受けたようなことになっています。

 週の中ほどの3日間は、顧問先の研修会に参加して千葉県の木更津に出かけました。「なーんにもない所でしょう」と気の毒がってくださる人が大勢いましたが、私にはドキドキするほど興味をそそられる丘陵地帯でした。そこに広大なホテルがポツンと建っていたのですが、その大広間で缶詰め状態になり、つまりフリーダムを犠牲にして聞き耳をたてる何百人かの社員に、リバティを求めあえる社会の創出に貢献しようではありませんかと訴えました。

 週末は、若いカップルが石畳を仕上げに来てくれました。学習を重ねた私が敷けば定規やコンパスを用いたように仕上げていたのでしょうが、二人はまっすぐに敷こうと努力をしながら獣道(けものみち)のように蛇行させていました。人間は学習を重ねるに従って何かを見失い、逆に既成概念にとらわれたり、自己制御能力を見失うことをフリーダムだと考えたりするようになるのかもしれません。私の目には、二人が敷いた緩やかな蛇行がとても暖かく感じられます。

 

先週の剪定で切り取った紅梅の枝です。室内に生けておいたらほころび始めましたので縁先でガラス越しの日に当てたところ、このように咲きました。わが家ではこのあと、燃やして灰にするか腐らせて堆肥にして土に戻します。剪定で出た枝の多くは屋外の水槽に生けてありますが、蕾はまだ固いままです。もちろん日当たりがよい木に着いている蕾も固いままです。

アメリカでは、国民が日々目にする硬貨にはリバティの文字が刻まれています。古い銀の硬貨だけでなく、今日の白銅貨にもリバティをうたっており、フリーダムはうたっていません。フリーダムは勤労からの解放とか奴隷の解放など身体的な拘束からの自由をイメージさせ、他方リバティは未だ手に入れていない精神的な自由をメージさせるようです。

庭に落ちていた椿の花です。中央の一つを除き、あとは実生です。落ちている実生の花は、よく見ると私たちの顔のように異なっています。広大な木更津の丘陵地帯では落葉樹の林が広がっていましたが、あちこちに常緑樹も見られましたから、きっとさまざまな色合いの花をつけたサザンカなどが妍を競いあっていたことでしょう。
妻の新作の人形です。庭で拾った椿の花を撮っていたら、妻が側に連れて来ました。妻はリバティを求めているうちに人形創作にたどり着きました。だから多くの仲間を得て、自ら身を工房に縛り付けながら、いわばフリーダムを自ら放棄しながら、創作というリバティの世界に踏み出せたのではないでしょうか。

菜園のブロッコリーの現状です。鬼葉をすっかりついばんだ小鳥ですが、新たに出た脇の花芽にも手を出しません。種をつける花芽に手を出すことは、自らの首を絞めるようなものだと知っているのかもしれません。ブッシュのように賢い小鳥がいたら、きっとフリーダムを叫んで花芽にも手を出すのではないでしょうか。

ケンの小屋の裏にあるブッシュの手入れをしている途中で小鳥の巣を見つけました。小鳥もケンを番犬として生かしていたようです。ケンの小屋の上に巣を張れば、イタチやヘビやネコなどに襲われにくくなるに違いありません。

若い二人が仕上げた石畳です。「木を見て森を見ず」と言えば、二人は教訓と受け止めてくれたことでしょうが、言いませんでした。逆に、世の中にくたびれたら、二人でこの石畳を見に来てください、と伝えました。きっと、直線や平面や円筒形など幾何学的な都会に息が詰まったら、この曲線と曲面から出来た小径がよどんだ息を吐き出させるに違いありません。