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アイトワ循環図

21世紀人として方向を改める  05/03/06

 念願がこんなに早くかなってよいのでしょうか。昨年の暮に明倫小学校跡を訪れたときから、妻を案内したいと願っていましたが、「明倫茶会」という煎茶パーティーに招かれたのです。私たち共通の知人から、京都芸術センターを会場とする「春待ち茶会」に呼ばれたのです。

 少し早めに出て、前回商社時代の友達と訪れ、ココアを楽しんだ喫茶室に妻を案内しました。木造建造物がかもしだす暖かさと落ち着きを満喫しながら、どうやらここは元職員室であったようだ、と勝手に推測しました。だからでしょうか、小学校の卒業生が母校の教員を殺傷した事件を思い出してしまい、わが身の子どもの頃まで振り返ってしまいました。

 子どもの頃の私は、よくお使いに出されました。結核で寝込んでいた父とは顔をあわせることもなく、母子家庭のような生活でした。だから、小学低学年の時から電車に乗って出かけるお使いにも出されたのです。その折に母はいつも私の背中に向かって、「困ったことがあったら恥ずかしがらずに、側にいる大人の人に声をかけるのよ」と声を投げかけました。もちろん当時から、「人を見たら泥棒と思え」という諺もありましたし、陰惨な事件も生じていました。また、アフリカ旅行では、水のみ場でシマウマやシカがライオンと一緒に並んで水を飲む光景を見ました。日常的に狩が繰り広げられていましたが、シマウマやシカにすれば、ライオンを恐るべき存在と思ったのでは生きてゆけないでしょうし、常に恐るべき相手とは思っていないのでしょう。

 私たちはどうして子どもに大人を警戒させる教育をしたり、予告なしに暴漢役を進入させて子どもを震いあがらせるような模擬演習までしたりするのでしょうか。人間同士で不信感を抱き合うような意識を幼児期から刷り込むことに、問題はないのでしょうか。また、そう刷り込んだ方が子どもの幸せになると信じているとすれば、それは悪しき傾向ではないでしょうか。文明の度合いが進み、近代化するに従って、子どもまで悪しき方向に追いやっているようで不安です。

 この週の主な出来事は2つでした。その一つは次回にして、京都市環境局が催した研修会の講師に招かれたことに少し触れたいと思います。3000u以上の事業所を持つ企業の廃棄物担当者が対象でしたが、方向の転換を訴えました。賢い消費者の育成と、その消費者に支えられる企業になろう、との呼びかけです。問題は、賢いとは何を意味しているのか、ということです。20世紀では賢かった人が、方向転換しないと21世紀人としては愚かな人になりかねません。

 話題を、多くの人が「もったいない」という言葉を口にしていた1960年代にさかのぼらせました。その頃に「消費を美徳」にする人が現れてカッコウよく見えましたし、借り入れをして製造設備に先行投資する人が成功を収めました。しかし、資源枯渇はもとより、環境破壊などに対する配慮を欠けていたわけです。にもかかわらず、私たちはこうした人々を賢い人と見ていましたが、そこに問題があったのではないか。今、異なる賢い人が現れつつあります。本当に賢い人を増やし、その期待に応えようとすることがこれからの企業の社会的責任だ、との訴えました。講演後、アイトワ塾員やその夫人に駆けつけてもらい拙著の販売に当たってもらいました。

 庭はすっかり春の気配です。ポッポたちは営巣を始めたのでしょうか、ときおり単独でやってきます。野草や野生動物はジーッを眺めていますと、それぞれなりの個性を主張していることがよく分かります。人間は逆に、どんどん子どもたちを画一化の方向に押しやっているように見受けられますが、そこに悪しき傾向を生み出させる余地があるのかもしれません。個性や多様性を建設的かつ創造的に発露させずに、押し殺させようとしたら、それらを不健全な形で、たとえば意地悪とかいじめとか暴発などの形で自己主張させがちになるのではないでしょうか。



野生(天然の自生種)の椿が咲き始めました。わが家には、五島列島の野生種の椿もありますが、その蕾はまだ固いままです。ある女性から、10数年も前に、その苗木と一緒に野生のツワブキやエビネランが送り届けられました。その女性は過日他界しましたが、ツワブキはとても庭ではびこっています。

ポッポの夫婦です。とても仲むつまじいのですが、エサのときは別人です。ポッポは独り占めをしようとして、威嚇します。今の人間の恋人同士なら、すぐに破綻でしょう。でも「おしん」の時代は、人間の夫婦とか教師と生徒の関係は、今とは大きく異なっていたたことでしょう。普段はやさしいけど、イザというときは放って逃げていた、というようなことはなかったかも。

小麦はここまで育っています。これは見事に育っているというよりも、厚蒔きした悪い例だと思います。母はもっと薄蒔き(まばらに蒔く)をしていたことでしょう。一つの種から株分かれして数本になると知らなかった私は、良かれと思って失敗を犯していたようです。もっと大きくなってから、その弊害が現れそうに思います。
まだペチコート水仙が残っています。球根を植えつけたときは、白だけでなく、黄色い花を咲かせるのもあったのですが、今では白い方だけが残り、自生種のようになっています。きっと黄色い方は、改良種(?)ではなかったのでしょうか。
この本と、『次の生き方』を講演会では並べてもらいました。方向や意識を改めよう、と訴える内容ですが、数はたいして出ませんでしたが2冊とも買ってもらえる人が目立ったことに救われました。写真をクリックしていただくと、20世紀の人ケネディ大統領が聴いた助言、方向や意識の転換を訴えた助言を引用した部分が現れます。

庭ではクリスマスローズも咲き始めています。白い花や、ピンクの花や、房のように咲くのもあります。こうした異国からつれてこられた草花の中にも、わが意を得たりといわんばかりにはびこるものもあります。人間は、良いことをしているのか、とんでもないことをしているのか、いずれでしょうか。

シキミの花です。わが家には野生のシキミと天神さんの植木市で苗を買ったシキミが各一本あります。いつも今頃になると天神さんで買った小さい方の木が花をつけます。日照のつごうかもしれません。こうした一枝を手向けながら、清楚に故人をしのぶような葬送があってもよいのかもしれません。