道具学会 播州丹波予備調査
 
旅は新神戸駅から車で千年家と呼ばれる箱木家住宅に向かう所から始まりました。ダムで沈むいことになった700年ほど前に建てられた日本最古といわれる家屋を移築したものでしたが、大きな一軒家を解体し、二軒に分けて建て直していたのが気になりました。前庭に、ナツメの古木がありましたが、これも移植したものであればいいのですが。

 

ミヤナガという優れた総合ドリルメーカーを訪ね、人類がどのように(首飾りの細い管石などに)穴を開けてきたのかなど、歴史からひも解いてもらった上で工場見学(秘密の部分だけ撮影禁止)をしました。この会社の製品を私はそうとは知らずに用いていましたが、新方式のコンクリートドリルの使い方を私は間違っていました。

 

浄土寺の構造を示す図面です。1190年に建物と仏像(ともに国宝)を一体として建立した100坪の浄土堂は、16本の柱で支えられており、「なるほど」とうなりたくなる知恵が見られました。その構造は、小野市立好古館で、実物大の柱や模型とか図面を用いて明らかにしています。他に類の少ないバランス感覚と工法だと見ました。

 

広渡(こうど)廃寺跡にも立ち寄りました。写真は廃寺跡にあった同寺の模型です。奈良の薬師寺を思わせるような配置です。この地方には古墳もたくさんありますが、お寺もたくさんあったようです。今は多くが廃寺跡です。

 

翌日は好古館から始めましたが、魅力的な展示品が多々ありました。これは初めて目にする土器で、山陰型甑(こしき)形土器と呼ぶそうです。なぜか左右の持ち手が大きくずれているのが気になりました。

 

好古館では、学会の旅ですから資料室も案内してもらえました。整理が大変だと聞かさましたが、昔の道具の中に、何のためにどのように用いたのか分からない代物もたくさんありました。見覚えのある農具を興味深くながめました。
播州ソロバンに打ち込む伝統工芸士、宮本一廣さんを訪ねました。三木市と違って、小野市は小型の製品をこじんまりとしたスケールで生み出してきた歴史的背景があります。それだけに今も職人気質と技に触れやすいようです。農家の副業的であったのでしょうが、今では農業が副業化しています。

 

小野市伝統産業会館です。ソロバンと鎌の他に、鋏や包丁とか釣り針などの金物や、焼き物や玉すだれなどの伝統産品があります。握り鋏は日本で誕生した鋏のようですが、今も自衛隊に握り鋏を納入しているようです。人だけでなく装備も、旧日本軍を継承したのでしょうか。

 

鎌鍛冶職人西尾勝美さんの仕事場も訪ねました。リキ材とよぶ複合鋼材を仕入れてから打ち始め、ベルトハンマー、スプリングハンマー、フレクションと呼ぶ3つの電動機械を用いているとはいえ、決め手は職人技でした。だから、ソロバン職人と同様に、機械は職人の手の延長に留まっており、道具とみなした方がよさそうだ、と思いました。道具と機械を分別する定義はまだないのです。

 

優れた各種鋸を自動生産するユーエム工業では、秘密の技術も見学させてもらいましたが、ドリルのミヤナガと違って工場内部は全面撮影禁止でした。手作りの良さをいかに機械で再現するか、そこに知恵の絞りどころがあるようです。写真は、手作りしていた頃を再現したコーナーでした。ここの製品も私は知らずに用いていました。

 

同社の先代社長のコレクションを収めた「我楽亭」にも招かれました。韓国が古美術品の持ち出し(購入)を歓迎していた頃から始めたコレクションと、中国に目を転じて集めた青銅器のコレクションは圧巻でした。先代社長は、農作業に疲れるとこの机で過去に思いを馳せるようです。

 

3日目は、日本玩具博物館から始まりです。姫路郊外の神崎郡にあります。私たちが朝一番の訪問者でしたから、とりわけ快く迎え入れてもらえたようです。アフリカの楽器の玩具、新しいコレクションだそうですが、とドイツの時間をかけたコレクションが魅力的でした。

 

柳田国男の生家です。その間の福崎から生野はJRの特急に乗りましたが、列車は山間を走りました。駅から生家は車で訪ねましたが、まだ人影はなく、ネコの子一匹とも出会いませんでした。しばし連想と瞑想の世界でした。

 

生野銀山です。掘大工、負子(おいご)、砕女(かなめ)、手子(てご、10〜15歳の工夫)、女手子、振金師(ふりかねし、測量師)など構内で働く大勢の人を、下財(げざい)と総称していました。今日、人材と呼ばれている多くの人は、一昔前なら人手と呼ばれ、その前は「人足を求む」などと呼びかけられていたようです。今では人財との呼び方が増えていますが、次はどうなるのでしょうか。

 

黒川温泉では、ひなびた寺も訪れました。雲頂山大明寺です。臨済宗妙心寺派とあり、京都が懐かしくなりました。村では、鹿の被害に泣かされていました。イノシシは巨大な黒川ダムができてから出没しなくなったそうです。

 

最終日は加美町の杉原紙研究所を目指しました。楮(こうぞ)を用いていました。今日一般化している半紙はここの発祥です。わが家の一帯には自然生えの楮がたくさんあります。小鳥が種を糞で運ぶのでしょう。わが家ではミツマタも植えています。
最後は日本のヘソでした。ヘソとはすごいニックネームですから釣られて訪れましたが、東経135と北緯35度の交差点に過ぎませんでした。側に「日本のへそ公園」というJR駅と公園もありましたが閑散としており、昼間の列車は2時間に1本ていどでした。何らかの癌密な意味で、日本国の中心? と期待したのですが。

 

『水筒と飯盒』の鑑賞もしたフォーラム会場です。いつもは東京で開かれますが、関西でもしばしば開催してもらいたく思いました。文化は道具を生み出させ、人間を人間たらしめたが、文明は機械だけでなくロボットまで生み出させ、人間を分解して無機質化した。文化を見直し、心を取り戻さなくてはいけない。これは私の独断と偏見です。
会場の一角では世界の湯たんぽのコレクションが展示されていました。この春のフランス探検時に、同道した知人が掘り出したコレクションも混じっていましたから、ひときわ興味をそそられました。東西でよく似た発想の湯たんぽもあれば、異質な発想の代物も見られます。

 

歩兵の装備です。敷いてある生地は、雨をしのぐテントがわりです。この装備でジャングルに派兵され、現地民の田から米を失敬し鉄兜で精米したこともあったようです。