エスキモー
 
 このオーストラリアに生息するディンゴという犬の説明を聞いているときに、短大時代を思い出しています。エスキモーという言葉を講義で用いた私に、疑問を抱いた学生がいたのです。差別用語ではないかとの疑問でした。エスキモーは「生肉を食べる人を意味する差別用語だ、使わないように」と、彼女に刷り込んだ教師がいたわけです。この解釈は広く流布しており、その根拠をアメリカの研究者が徹底的に調べていますが、その根拠はなかったようです。

 そんなことはどちらでも良い、と私は思いまず。教員は、差別用語を云々するよりも、差別意識を持たない人間に育てようとすべきではないでしょうか。そう思った私は、少し講義の時間を割いて、おおよそ次のように応えています。

 「刺身を食べる私たちが、どうして生肉を食べる人たちを蔑視するのでしょうか。私たちはお互いの文化を尊重しあい、文化の違いに上下や貴賎をつける意識を改めようではありませんか。その意識を改めずに、言葉だけ変えてゆけば、余計に陰湿な問題にしかねないだけでなく、地球を破壊する問題にまで拡げかねません。そこに私は、文明の恐ろしさを見ています。

 たとえば、中国やインドネシアではトイレットペーパーを用いていませんでした。水を用いて手で洗う文化です。だからテキスト(拙著『このままでいいんですか もうひとつの生き方を求めて』をライフスタイル論ではテキストに使っていました)では「手動式ウォッシュレット」と呼んで感心しています。もしトイレットペーパーを用いる文明国を先進と考えて、この両国の人やその他トイレットペーパーを用いていない国々の何十億人もの人たちが用いだしたら、どのような環境破壊が進むのでしょうか。どうして文明が可能にした習慣、環境破壊を進めている私たちの習慣を先進と見るのでしょうか。むしろ恥ずべき身勝手な行為ではないでしょうか。

 ところで、この疑問を呈した学生にも、2年生の環境論を授けられずに私は学校を去っています。だから、最終講義では「餞別の意味も込めて『次の生き方』を記します」と伝えています。その中で「アフガニスタンでは小麦で作ったパン・ナンを主食にしており、『ナンを食べる』(という言葉)が、肉(を)食(べること)を諌めていたわが国の『ご飯を食べる』と同様で、『食事をする』を意味しており、『タマネギと発酵乳と真心があればそれで十分な御馳走』とする食文化を守っている。13億人ものイスラム教徒は卑しむ豚を、10億人のヒンズー教徒は崇める牛を、今も生涯にわたって食べない」という下りを盛り込んでいます。

 こうした人々に私たちの生活習慣を押し付け、切り替えられない人々を後進と見下しかねない風潮を広げることに、私は疑問を感じています。自由を叫び、絶対的な軍事力まで行使して押し付けたとしたら、見下された人たちはどのような対抗手段に訴えたらよいのでしょうか。

 なお、ディンゴは犬の一種ですが、人間になつきません。そこに、オーストラリアの先住民アボリジニは(侵略的に入植した白人に対する自分たちの姿を見て)共感し、大切にしています。

 ところで、アイヌのイヌと、イヌイットのイヌが共に「人」を意味するのは偶然でしょうか。