大見のこと
 
 写真は、大見のことを心配していた若き女性です。大見に、教員に引率されて幾度か顔を見せていた造園家志望の人です。どうやら、わが家の庭「エコライフガーデン」がお気に入りのようです。そこは「持続性のある生活を可能にするために、自ら創造的に生み出す過程自体を楽しむ庭」といってもいいでしょう。「住んでいるだけで健康になり、住んでいるだけで生活を潤し、やがては近隣も潤す庭」を自ら創出する過程を楽しむわけです。

 彼女は、ひょっこりと郷里からやってきて、近況を報告すると共に夢を語って帰りました。その折に、一緒に訪ねた大見の「その後」をとても心配していました。

 大見は京都のいわば秘境です。長年にわたって数百人の人々が、「あなたは」の意味で「そちは」と呼び合い、自給自足生活をしてきた平家の落人伝説もある村です。京都市は地下鉄をはじめ大規模公共工事からでる残土の捨て場として大見に目をつけ、ダンプカーで残土を運び込もうとしていたことがあります。その魂胆を、裏日本にも通じる道路の建設と公園を作る計画、として発表し、実行に移そうとしたわけです。ところが、市の魂胆を見抜いた人々が立ちはだかり、環境的資産の大切さを訴えて市の計画を頓挫させました。そのときすでに道路の建設は相当のところまで進んでいました。

 残土捨て場にしなくてよかった、と市の人から聞かされるところから私は関与しました。市が残土捨て場用に買い占めていた土地をいかなる公園に生かすか、同時に道路をどこに通すべきか、を審議する委員としての関与です。結論を急げば、市は「よい公園を作るから、その公園を見渡せる道路を通したい」つまり「公園づくりを約束することで道路建設に対する市民の同意を得たい」と願いました。市民の代表としての委員は「村をどのような公園に生かせばよいのか。高速高架道路から見下ろすに値するよい公園とはいかなるものか」という点、つまり「大見の歴史と自然を生かした公園づくり」の視点から審議を始めました。

 この村には、まだ市に買い取られていない土地家屋もあります。中には雪深い冬を除いて帰郷し、のどかな生活を繰り広げている持ち主もいます。つまり、公園計画に反対した人もいたわけですし、中にはもっと値上がりしてから売ろうとしていた人もいたのかもしれません。そうこうしている間に買収計画は頓挫し、バブルもはじけています。

 世界に発信できる公園にしよう、と私は呼びかけました。レジャーランド型の消費の喜びに浸ってもらう公園ではなく、つまり来園者に媚びる公園ではなく、自然環境を生かして持続可能な未来の生き方を提唱し、来園者と共感する創造的な公園にしようとの提案です。この方向で審議は進み、さまざまな分野の専門家が集まった委員会は、村の水脈まで切ってしまいかねない道路を村に通したりするようなことは避けるべし、との結論を導き出しています。

 その過程で、終盤になってから、次の2点が明らかになっていました。道路建設予算や建設スケジュールなどはすでにあるが、公園については予算もスケジュールも未定。道路を村に通せば、最短ではないが、一番安上がりで済む。つまり、審議会の提案だと道路建設費が高くつき、市議会ですんなり通らず、スケジュールが狂いかねない。

 結果、村を通せば道路建設費は100億円で済むが、委員会が提唱した「数百人の人々が自給自足生活できる生活環境と自然環境を保全するルート」を選ぼうとすると120億円かかる。このいずれがいいのか、と選択を迫るような形の報告書を市は作成し、再評価委員会にまわしました。

 もちろん私たちは、自然環境はいったん破壊すれば再現は不可能に近い。これを保全し、未来世代に引き継ぎながら、世界に発信できる公園をつくり、観光の世紀といわれる21世紀に備えるべきだ。それが、4000万人以上の人々がやって来る観光京都の人気をよりいっそう高めることになる。そのうちの1万人が大見を訪ねるために一泊余分に日程を組めば、それだけで少なくとも1億円のお金が京都に落ちる計算になる。そのお金は、さすがは京都という尊敬や共感の対価である、とも訴えています。
さあどうなるのか。見ものです。私は、市議会で「とにかく道路建設を急ぐべきだ」とか「その建設費は安いに越したことはない」との旧来の経済的資産だけにとらわれた意見が飛び出しかねないことを心配しています。これまでの京都は、目先の損得などにかまけ、町中に提灯や灯篭を並べざるを得ないような方向、小手先の観光都市に走っているようで心配です。

 特に京都は環境的資産こそを大切にすべき都市です。市民も巻き込んだ議論を重ね、税金の生かし方を懸命に審議する市政運営を期待しています。