仲間内で紹介しあう掲載誌
 仲間内で紹介しあう掲載誌に載せてもらったレクチャーの宣伝文です。おおいに推敲に苦労をしました。というのは、その途中で次のようなことに気付かされ、おのずと肩に力が入ってしまったのです。
 
 絵に書いたモチという言葉がありますが、私はそのモチをつくような人生を歩み始めていながら、なぜか物足りなくなって進路を変えています。なんとそれが絵に書いたモチを現実のモチにつき直させられる道であった、と気付かされたのです。

 工業デザインを学ぶために進学し、工業デザインの手法、つまり既製品に美的価値を付加する手法を商社で衣料品に適用させてもらいます。既製服化の組織的な推進です。それが落ち目になっていた商社の繊維部門を高度経済成長時代の波に載せました。

 もちろんその間には苦節があり、ファッションに精通することが成功の秘訣だと気付かされています。その気付きも、商社の幹部に理解してもらうことができ、ファッションシステムと名づけた子会社を作らせてもらいます。つまり、人工的に付加する美的価値で、消費者とシステム的に陶酔し合えるようにしてもらえたのです。

 ちょうどそこに、団塊の世代という格好の対象がありました。その団塊は、それまでの「上の風(ふう)、下之(したこれ)に倣(なら)う」では飽き足らなかったのでしょうか、「下の風、上之に倣う」の世界へとシステム的に誘いますと大変な手ごたえがありました。その過程でVANやJUNの社長にも来社してもらっています。

 また部下の一人であった団塊の世代の女性と結婚しています。なんとかしてこの人に、自分で気付いていない自分を発見してもらえないものか、と願って一緒になったような一面があります。やがて妻は誰にも倣わず、いや習いに出るゆとりを与えられずといった方が正確ですが、人形つくりに手を出します。

 世の中では一気に服飾潮流が変わりました。団塊の世代(下)の風が波立たせた潮流にその上の世代の女性層が大きく動かされたからです。佐藤栄作夫人もミニスカートで夫の訪米に随行しています。やがて私は、婦人層を主対象としたファッション企業に拾われて、そこで新会社の社長まで兼務させてもらいます。

 その頃からです。どうもおかしい、こんなに話がうまくいっていいものか、との疑問を感じます。振り返ってみると、予想していた以上に、野の花や小鮒などが次々と姿を消していただけでなく、よき日本の文化や麗しき日本の景観まで破壊されていました。そこで思い立って会社をやめ、無収入になりましたが、処女作に手をつけています。

 その頃、妻は少数民族をテーマにした人形で、人形作家と呼ばれるようになっていました。民族衣装を手放さず、自活力を見失わず、相互扶助関係を大切にする村落を守って生き続けてきた人々を賛歌する活動の一環でした。

 私は、バブルという言葉がはやる寸前に一書をモノにできました。そこに「ポスト消費社会の旗手たち」との副題を添えました。そのあとがきに、「上の風、下之に倣う」が「下の風、上之に倣う」に転じたくだりにも触れています。その後、次々とシリーズの小文に手をつけました。

 私が感じていた疑問や不安の霧が晴れわたったような気分になっていたときに、教員への誘いを受けたのです。若い人たちの気持ちはもとより、教育自体にも大きな問題があったことにも気付かされるきっかけでした。他方、欧州のいわゆるブランド物の売上高が、日中韓の3国によって7割を占める時代になっていたことも知ります。

 こうした過程で学んだり気付かされたりしたことを、この朝日カルチャーセンターでは、自ら希望して集われる方々と巡り合い、忌憚なく語り合うことができることに気付かされました。そうした幸運を提供されのだと気付かされたのです。おのずと力んでしまいました。