日本のほころび

 

 大学での講義の後、学生の印象を聞くと「ひでーな。僕らは真面目に必修科目を全部勉強させられたのに、手抜きして入れたやつらがいるなんて」とのこと。馬鹿者、と私は一喝した上で、「高校に行くのは、勉強が目的なのか、大学受験の手段なのか」と語ろうとしましたが、その無益さに気付かされました。

 進学校の教員にすれば、大学合格率で父兄などの評価が変わるわけですから、生じかねない事件であったのではないでしょうか。それを予測せずに放っておいたところに問題の根があったように思われてなりません。

 必修科目にしておけば、履修させるに違いない、あるいは履修するに違いない、と期待したのかもしれません。それは自動販売機でタバコや酒を売らせているのと同じ無責任さではないでしょうか。未成年はタバコや酒を禁じているから買わないはずだ、との期待と似ているように思われてなりません。

 いんちきで卒業した高校生と、受験には不必要な科目まで履修し、その分だけ受験科目の勉強時間が少なかったまま卒業した高校生が、受験場で合間見えていたわけです。それがハンデキャップになって不利になった例はなかったでしょうか。あったとすれば、それで落ちた人は集団訴訟を起こしたい心境だと思います。それを押し殺させたまま、国旗や国歌を敬えといい続けたら、おかしなことになりそうです。

 国が必要だと命じた科目を履修しなかった方が、有利に立ち回れる国家だから、国家を愛するように強制せざるを得ないのだ、といわんばかりの印象を与えかねないようで不安です。より幅の広い学習をして人格形成に精を出した若者が構造的に不利になる体質を以下に改めるべきか。どう清算するのか、見ものです。根元かな改めなければ、根太を腐らせかねません。

 かつて私は、短大で幼児教育科の強化を試みたことがあります。それは予防の必要性を感じたからです。歯はいったん傷めると自然治癒がないと知ったからです。そのときに、私の予防策に貢献しようとする目的を知った人が、「そんなことをしたら患者さんが減ります」と叫びました。その人は元保険所長だって人で、とても誠実で真面目な人でした。順々に説くとすぐに理解してもらえましたが、それまでは逆の考え方をしていたことは確かです。日本ではこうした考え方を横行させているようです。海外では、この逆の考え方をして、健保の財政破綻や医者不足問題を生じさせていない例が多々あります。