昨年、講演がきっかけで11月中旬に知人を介してソバ打ちパーティーに呼んでもらいましたが、その指定文化財のお宅の庭に天然の平茸が出たわけです。
広大な庭にある庭木の切り株などには次々と平茸やナメコ茸などが出るそうです。知識だけでは到底キノコ狩りは出来ません。私はキノコに関する体験が少なく、わが家の庭に出る多くのキノコを見捨ててきました。だから学びたく思いました。
「昨年は柚子や柿などが1つもならなかった」と聞き、話が更に弾み始めました。「こんな年は初めて」とのことでしたが、わが家の「40年来初めて」とはわけが違って、何代も続いた元は庄屋のお宅の庭での話ですから、異常さのほどが偲ばれ、話が弾んだのです。
どうやら講演を通して、生きがいという面で共鳴しあえるところがあったのかもしれません。だから最後は、維持管理が大変だろうと同情し、「ご兄弟はいらっしゃいますか」と質しました。即座に、見事な返事が返ってきました。代々、父が「維持する役目を担わせる息子に」、遺言で「次の代への引き継ぎ役を」命じてきた、とのことでした。
売却権を与えず、それを覚悟して引き継ぐ息子に育てるのでしょう。戦後の法律でいえば兄弟姉妹は同等の相続権を有するわけですが、売却権を与えられなければ、維持する負担を強いられることになるわけです。
この話を聞きながら、バブルの最盛期に、銀座の一等地を引き継いだ「鳩居堂」の社長が自殺をしていことを思い出しました。天文学的に膨らむ相続税や、毎年負担になる固定資産税を強いるような社会を嘆いての自殺でしょう。
その分、消費者価格に転嫁すればいいようなものですが、そうは出来ない人であったのでしょう。あるいは売り飛ばした金で自ら「欲望の解放」に走ればよいと考えられる人であれば、むしろ大喜びしたのでしょうが、そうは考えられないヒトであったのでしょう。つまり、消費者(人)を「カモ」と見て、虚栄心や射幸心をくすぐり、「欲望の解放」を助長できる人であれば自殺せずに、むしろ喜べたはずです。
問題は、戦後の税制は、「人を人と見るヒト」には重い荷を背負わせかねなくなっていました。そんな社会は捨てて、「人を人と見るクニ」に移住すればよいのでしょうが、そうも行かなかったのでしょう。本当の愛国心の持ち主であったのかもしれません。
元旦の夕刻前に、こんな会話を交わしました。
愛国心を法などで強制しようとする人は、「人を人とは見ないヒト」であることを自ら示しているようなものだ、と感じてしまいました。
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