希望という光を放つ灯台
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過日新聞で、宮崎県の綾町は、国の方針に逆らって日本1の照葉樹林を残し、村おこしに生かしたと知り、まず訪れました。 当時の町長郷田さんの著作『結いの心』@によれば、「夜逃げの町」と呼ばれていた林業を主とする2,500戸7,600人の人々を郷田さんは励まし、生き返らせていました。その特色の幾つかを列記しますと、まず国有林を杉や檜に切り替えようとする国の方針にあがなって照葉樹林Aを残し、照葉樹林が育んだ文化を尊重してきた。宮崎市まで車で40分だがベッドタウンにせず、国の農薬や化学肥料などを生かした単作を奨励する農業基本法は間違っていると訴え、有機栽培による自家自給率の高い農業を奨励した。国が突き進める消費社会を危惧し、創造的に生きる1戸1品運動を展開した。孫子の代に借金を残すようなことだけはしまいとか、1人の賢母は100人の教師に勝ると叫びあい、全員参加の町つくりを進め、自治の心を育んだ。1982年国定公園指定を受け、世界1の歩く吊橋「照葉大吊橋」を1983年に完成させ、年間120万人以上の観光客が訪れる町になったが、観光の町はやがて寂れると訴えて有機栽培農業などの奨励に拍車をかけるなど。有機栽培野菜など町の産物Bを求める町民の顔は輝いていました。このように人々を生き生きとさせたリーダーシップに脱帽です。 都城市では「紅梅園」を訪ねましたC。数ある梅の木の中から、紅梅が咲く紀貫之の『大鏡』にでてくるわが国の在来種といわれる「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の梅園Dが見られます。台風の通り道にある古木はなぎ倒されながら、けなげに実を結ぶようです。 国の農業政策は、機械化や農薬や化学肥料とか除草剤を奨励し、見かけを均質化させてきましたが、そこに危険性を見出し、実の大きさとか実のつき具合などは劣りますが鶯宿梅を選び、徹底した無農薬有機栽培で育て、梅干や梅肉エキスなど梅製品を生み出しています。 ここで育った梅製品のミネラル含有率など成分は検査機関で折り紙をつけてもらっています。今では椿油にも価値を見出しており、ツバキの栽培にも力を入れていました。 熊本県移動し、水俣市ではまず水俣湾を埋め立てたエコパークを訪れました。「しらす干」の原料になる生シラスの水揚げを見学Eし、丘に並ぶ市民手作りの地蔵などを見学しました。最初に目に留まった地蔵Fは、かつて泊めてもらったことがあるお宅の主人の手彫りでした。水俣病で辛酸を舐めた家族の願いが込められているようでした。案内してもらった友は、水俣病で苦悩した母を近年失っていますが、丘で尺八を吹いていましたG。海水は見事に澄んでおり、沖縄より豊かな珊瑚が茂るようになった、と地元の人に聞かされました。 エコパークの一角にある水俣病資料館に案内されました。館長に待ち受けてもらえていました。彼が水俣市職員であった頃に私は知り合っており、彼の家にあったニッキの苗木がわが家の庭で育っています。新館長になった彼は、悲惨な歴史を訴える展示にとどめず、3つの変更を加え、見学者に胸に希望を抱いて帰ってもらえるようにしていました。まず入り口正面に自作の詩Hを掲げていました。次に若き漁師たちの笑顔のパネルIが眼を引きました。かつて海の幸を焼いて振る舞ってもらったことがある見覚えのある人たちでした。3番目は、自らも犠牲者でありながら患者を支え、勇気付けた人たちの紹介Jでした。 標高600mにあった山奥の「天の茶園」Kを訪ねました。祖父が開拓し、種から育てた茶園から始まっていました。無農薬有機栽培している茶畑ですが、囲炉裏の側でLお茶をご馳走になりながら、霜害の怖さや、無農薬有機栽培ゆえに大量に棲みつくマムシのようすも聞きました。 一般的な茶園は「やぶきた」という美味な茶葉が摘める単一種を育てていますが、接木や挿し木などで増やすために根が深く入らず弱いせいもあって、年に7度も8度も農薬を撒かざるを得ないのが実情です。天の茶園は直根が地中に深く伸びる実生の茶の木を無農薬有機栽培しています。病気にならない体を大切にしているわが家がたどり着いた茶葉が作られている畑の見学でした。 最後に、田浦の鶴田有機農園を訪ね、代表から得心できる一言を聞かされました。それは、このたび訪れた先々で感じさせられていた真理を表した一言でしたが、この一言に触れるまでにずいぶん時間を要しました。 前日の夕食に加わっていただくと、手作り野菜やノビルなど山菜を生かした料理Mを持ちお込んでの参加で、しかも翌朝の手作り朝餉に招かれました。昼食は、この旅に連れてくれた友が、恩師の畑の家で腕を振るうパスタでしたが、参加いただいた代表は友と調理にあたりました。かくして午後に柑橘類を無農薬有機栽培する山Nや選果場などの見学となりました。 選果場には餞別するために柑橘類を転がす設備Oはありませんでした。一般では見かけや生産性を重視して農薬散布を重ね、洗浄や餞別に平均25mも果実を転ばせるようですが、目には見えない品質をとても劣化させるようです。 祖父が、カラスがよくつつく夏みかんの木があるとの噂を耳にして大分県津久見市を訪ねたPところから話が始まりました。温州ミカンを奨励する国の方針に逆らって甘夏ミカンを全国に広めたのです。その後、柑橘類の貿易自由化や有機栽培の難しさで辛酸を舐めながら今日に至っていますが、「丸田のデコポン」などで名が知られるようになりました。 やっと聞き出せた代表の一言は、大げさに聞こえるかもしれませんが、との断りをつけた上での次のような一言でした。私たちは「表向きは有機農業をやっていますが、本当は日本の医療費を半分にすることを目的にしているのです」
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当時の町長郷田さんの著作『結いの心』@
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照葉樹林A
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有機栽培野菜など町の産物B
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「紅梅園」を訪ねましたC
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梅園D
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生シラスの水揚げを見学E
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地蔵F
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丘で尺八を吹いていましたG
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入り口正面に自作の詩H
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若き漁師たちの笑顔のパネルI
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自らも犠牲者でありながら患者を支え、勇気付けた人たちの紹介J
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「天の茶園」K
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囲炉裏の側でL
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山菜を生かした料理M
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柑橘類を無農薬有機栽培する山N
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選果場には餞別するために柑橘類を転がす設備はありませんでしたO | 大分県津久見市を訪ねたP |