出会った人や温泉
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夜行のフェリーボートを所望した九州の旅は期待通りでした。私たちは道を間違い、最後に乗り込むことになり、大型トレーラーの後ろに車を留める羽目になりました。だから荷物をぶら下げて食堂に差し掛かったときは、すでに陸送車の運転手仲間などがここかしこで酒宴を開いていました。よく見ると、家族連れはもとより、学生とか女性をはじめさまざまな人たちが乗り込んでいました。 1万トン近い船は、船室で浴衣に着替えながら、船が白波をたてているのを船窓から眺めてはじめて動き出していたことを知ったほどでした。私たちは早速共同浴場に出かけて一風呂@浴び、ビールで乾杯をしたうえで夕食を採り、場を食堂から船室に替えて焼酎で歓談しています。 この旅で最初に知り合った人は、紅梅園で出会った人たちです。紅梅園の後継者やその仲間と、かつてスーパーに勤めていた人ですが、友に声をかかられ、静岡を早朝にたち、飛行機便を生かして先に到着していた男性です。今は独立しており、紅梅園とも関係をもっています。 最初の温泉は、霧島連山の新燃岳の中腹、標高920mにある新湯温泉でした。紅梅園の後継者とその仲間が乗り込んだ車に先導してもらい、私たち3人の乗った車は雪が残る霧島岳が見え隠れする原生林の間を走りに走りました。耳がツーントするあたりから赤松になりました。 車は天孫降臨の伝説がある神社に立ち寄ったり、道中で硫黄の臭いがしたかと思うと地肌が剥き出しになった一角Aをかすめ通ったりしました。乾いた地肌から蒸気が噴出する光景は、京都で住み慣れた私にはとても奇異に感じられました。やがて車は下り坂に入り、谷あいにポツンとたたずむようなひなびた旅館にたどり着きました。霧島温泉卿の国民宿舎、新燃荘Bです。 山水が豊かに流れ落ちる谷あいに大きな水槽が並び、鯉や鱒が泳いでいました。その水槽を横目に見ながら石段を下ると露天風呂Cが目に入りました。混浴です。その手前に男性用の、奥に女性用の屋内浴室があり、一帯には硫黄のにおいと湯気が立ち込めています。 かつて長野の友に案内された乳白色の温泉とひなびた温泉を思い出しながら、ひなびた建屋の乳白色の湯船Dに浸かりました。大きな岩の上から白い湯が流れ落ちていました。子どもだけでの入浴や、大人でも単独の入浴を禁じていました。硫黄の臭いがプンプンします。 新燃荘は1954年8月の台風で9人が死ぬ土石流に巻き込まれており、6年掛けて再開。89年には硫化水素中毒で親子2人を死亡させ、一時は客数が激減したようですが、今では年間6万人前後が訪れるようになったとか。夕食には、鯉こくや鱒の料理とか山菜も味わっています。翌朝、山を下りながら、激しく水蒸気を噴出している光景EFにしばし見とれました。 次に知り合えた人は、水俣です。天の茶園の主、知人の父親でした。囲炉裏のソバで、さまざまなお茶をご馳走になりながら、標高600mにある有機栽培茶園のお茶までが、水俣事件当時は売れず、苦労をしたと聴かされました。 この次に知り合ったヒトは、田浦で夕食をご一緒した鶴田有機農園の代表であり、温泉は御立岬温泉センターGです。御立岬にあるゆったりしたログハウスを借りて一泊し、見晴らしのよい温泉センターに出かけて肌がスベスベする湯と日没Hを楽しみ、鮮魚料理が自慢の割烹に移動して夕食をとりながら歓談しています。代表が持ち込んだ山菜・ノビルのヌタIは絶品でした。 翌日は、友の中学時代の恩師を紹介されました。花畑と農園がある別荘Jに通う身で、昼食はその別荘で賑やかなパスタパーティでした。恩師と私たち3人の他に、鶴田有機農園の代表とその知人、静岡から駆けつけた男が鹿児島県から呼び寄せた黒豚製品の会社を営む男、そして水俣病記念館の館長にも駆けつけてもらいました。この後、静岡の男は帰ってゆきました。 熊本では佳松園ホテルの大浴場でくつろいだあと、スナックのようなところで3人の女性と合流し、飲みながらの夕食でした。友の幼友達です。その1人が、翌朝の散歩を、もう1人が異なる2人の女性を誘い、1泊2日の阿蘇巡りの案内にたってくれました。 朝の散歩は、田浦を干拓した加藤清正がかつてハゼの木を植えさせていたという川沿いKを歩き、上江津湖まで足を延ばしました。その後、もう1人の女性がホテルでバトンタッチし、総勢5人が乗り込んだ車で阿蘇の展望台や米塚などを見た後で、最後の温泉に向かいました。 その道中がまたよかった。村の各戸が温泉を調理にも生かしていると思われる「岳の湯」Lを経て「はげの湯」に着き、「豊礼の湯」Mで立ち寄り湯を決め込み、青みがかった乳白色の湯を堪能した上で黒川温泉の「山河」に投宿しました。瀟洒な木造の落ち着いた旅館で、岩風呂Nや露天風呂Oもよかった。黒川温泉は平日なのに賑わっており、案内してもらった女性たちは山河が満杯で、相当離れた旅館に分かれて泊まっていました。 翌日は、午前中の観光のあと、女性たちと分かれて大分港を目指すことになっていましたから、友の幼友達はご主人に旅館まで来てもらい、2台の車で阿蘇一帯を走りました。野焼きだけでなく、山火事で丸焦げになった裾野Pでは煙の臭いが残っていました。 大分までの道中で湯布院に立ち寄ってもらい、どうして友やその友達が黒川温泉を選んだのかを理解しました。黒川温泉は、地域が一体となって観光客の期待に応えようとしていましたが、湯布院の方はやってくる観光客を目当てに、銘々が勝手に知恵を絞りながら手ぐすねを引いて待ち受けているような印象をあたえました。景観には統一感がありません。 実に楽しい人と湯や産物などにも恵まれた1週間でした。
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早速共同浴場に出かけて一風呂@
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地肌が剥き出しになった一角A
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霧島温泉卿の国民宿舎、新燃荘B
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露天風呂C
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乳白色の湯船D
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激しく水蒸気を噴出している光景E
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水蒸気を噴出している光景F
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御立岬温泉センターG
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日没H
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山菜・ノビルのヌタI
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花畑と農園がある別荘J
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加藤清正がかつてハゼの木を植えさせていたという川沿いK
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「岳の湯」L
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「豊礼の湯」M
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岩風呂N
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露天風呂O
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山火事で丸焦げになった裾野P | |