子どもの教育問題

 

 海詩の叔母さんの1人はスエーデン人と結婚し、スエーデンに住んでいます。その息子を日本にも適応させるために息子を連れて一時帰国し、日本の学校に通わせたことがあります。そのときに、彼我で水泳の時間の生かし方が異なっていたことに気付かされています。

 スエーデンでも学校で水泳を教える時間があるのですが、その目的が日本とは大きく異なっていたのです。スエーデンでは、人生には海難事故に遭遇することがありうるので、慌てなくてもよいようにする教育を学校ではほどこすのでしょう。だから服装を身につけたまま泳ぐ時間もありますし、泳ぎ方は各人の勝手(フリースタイル)ですが、何時間だったか何キロだったかは忘れましたが耐久性を競う時間もあるそうです。

 スエーデンの学校でその水泳を学んだ息子、日本の学校に転向し、体育の時間に水泳を学んだのですが、先生には「その泳ぎ方はなんだ」と叱られるし、生徒仲間には大笑いされてしまった、というのです。私は、叱った日本の先生は「ダメ」だ、教師として不的確だ、と思いました。このような教師を文部省が容認しているようなら、日本の未来は暗い、と心配です。

 本来の学校は、それぞれの子どもが「持ちあわせて生まれた才能や能力など」に気付かせたり伸ばしたり、人間として求められる「生きる力」や「生きる勇気」、あるいは「公正に生きる志」などを授けたりするところではないでしょうか。

 もしそうなら、こと水泳に関して言えばスエーデンの教え方に私は軍配を上げます。そして、誰も試みたことがないすばらしい泳ぎ方ができて、しかも耐久力にも富んでいる生徒がいたら、思い切って褒め、水泳の選手を目指してはどうか、と勇気付けてはどうでしょうか。

 オリンピックでも、競泳の「自由形」は、平泳ぎやバタフライのように泳ぐスタイルを特定するのではなくて「フリースタイル」としています。もし「クロール」より速くおよげたら、どのようなスタイルで望んでもいいはずです。

 それはともかく、どのような事態に立ち至っても、時代がどのように変わっても、公正に生きてみせる、との気概や心のゆとりを養わせるところが学校ではないか。その生きた見本になろうとするのが組織の長に求められる自覚ではないか。その自信がない人は、私のようにさっさと身を引くべきではないでしょうか。それが美しい国を作る根本ではないか。この点で、日本は考え直さなければいけない、と思いました。