短大を去る気にさせた最初の出来事

 

 商社で、主要取引先を紡績会社からアパリル企業に転じる提唱をしていた40年ほど前に、紡績業界は延命策をこうじていました。人件費が安くつく若くて優秀な人を得るために、働きながら昼間2交代で3年間学び、歯科衛生士や保育士などの資格を得て第2の職場に転出しようとする学生を育む短大構想です。かく誕生した短大の1つから、30年ほど後に招聘の声がかかったわけです。

 ある日、紡績会社の要人の紹介ということでその短大の理事長に訪ねていただきました。いよいよ紡績会社が衰退し、紡績から送り込まれる学生がゼロになる日が近いと予測し、一般の短大として生き残ろうとしているもの、と即座に理解できました。

 採用されてから数年間は、紡績業界から毎年600人もの勤労学生が送り込まれていました。しかし、学長になった年に送り込まれた20数名を最後に、紡績業界から送り込まれなくなりました。一般の短大部門を併設していましたが、それだけで存続しなければならなくなりましたが、その一般の短大部門も定員を割るようになっていました。

 だが、教職員や学生の協力を得て、とても情熱的かつ気持ちよく問題点に取り組み、特色を明確にして次々と問題を解消することができました。そうした誠実で勤勉な風土を生み出した学生の中から、やがて女子プロボクシングの世界チャンピオンが誕生することになったわけです。

 体質転換と建て直しを成功させるための工夫の1つとして、勤労学生が培ったこの校風を生かした人間形成を目指しています。だから教員に、「私たちはそれぞれの専門を通して人間を育てることに勤めましょう」と呼びかけています。具体的には、特色のある4つの学科の垣根を取り除くやり方です。たとえば、歯科衛生士とか保育士などの国家資格を得させる予備校化に向かうのではなく、音楽科の音楽療法講座を生かしたり、デザイン科に園芸療法講座を設けて生かさせたりして、また逆に、音楽科やデザイン科の学生には医療や保育の現実や知識を認識させ、自己完結性の高い総合的な人間を育もう、と呼びかけたわけです。

 こうした方針がようやく軌道に乗せられるようになった頃に、「ライカ」の存在を知りました。日本初の女子プロボクサーの誕生です。やがて、ドクターストップを尻目に試合に望んだことや、日本チャンピオンになったことも伝わってきました。

 ライカは卒業生でした。紡績会社に勤めながら昼間2交代で時間を作り、3年間かけて国家試験にも合格し、歯科衛生士として就職していた人でした。その人が一念発起し、私には自己実現を果たしつつある人のように見えました。だから、学校に招いて、在校生に夢を語ってもらったり、こうした人を生み出したことを入学案内などで紹介したりしたかったのです。

 幾度にも渡って事務方にこの意向を伝え、ライカを招くように願い出ましたが、ついに、反応がない最初の事例になりました。私学は、学校法人が経営しており、事務部門を押さえていました。その事務方が動いてくれないとどうにもならないことがあります。配下の学科長にも相談しましたが、この願いだけは聞き入れない人がいました。そこに私は限界を見ました。

 既存の知識や技術の伝授なども大切ですが、己ならではと思われる個性に気付き、それを固有の能力として磨いて発揮し、社会に存在する己の真価とする人がいたら、私は勇気や自信を授ける学校にしたい。ところが、そうした意識が上層部ほど薄かったようです。もれ聞こえてくる声は、何のために歯科衛生士の資格を得たのだとか送り込んで歯科医院に申し訳ないなど、私には歯科医院にも失礼な意見が聞こえてきました。ところが、その人たちには私の意見の方が乱暴に聞こえたようです。なんだかライカに合わす顔がないような気持ちにされています。

 任期中に全学科の入学者が定員を超えたのを幸いに、「私は私自身に、私の役目は終ったと命じました」と学生に伝え、去ることにしています。私にとって大切であったことは、20,000人もの勤労学生などにとって最終学歴となる学校を守ることでした。私は、この思いは上層部も同じであろうと考えましたし、私よりも学校の歴史や体質にくわしい人たちでしたから、後は委ねるのが筋と考えたものです。しかし、必ずしもそうではなかったようです。