このたびの舞鶴引揚記念館では調べられませんでしたが、別途手に入れた資料によれば、長野県は県をあげてこの国策にのっており、12村が分村移民に応じています。その長野県にあって、3村の村長が軍国主義の重圧の下で応じていなかったのです。
村長たちは事前にこぞって満州に出かけ、現地視察をしており、反対した村長は現地の人をないがしろにする日本人を見て、分村移民に疑問と不安を感じています。だから家族に、国賊呼ばわりされることはもとより中には死を覚悟する必要性を諭したうえで反対しています。
長野県は、国策に従って33,741人を移住させ、生還者は17,100余人。生還者は田畑を放棄して移住したわけですから帰郷後も暖かく迎えられず、棄民であったかのような辛苦を新生日本でも味わったようです。分村移民を勧めた村長の中で、1人だけ自殺してわびたようです。
問題は、死まで覚悟して反対した村長が、新生日本で表彰された様子がないことです。過日ポーランドは、ユダヤ人を救った人道者の1人として故杉浦千畝に勲章を授与しましたが、新生日本はこうした人たちを表彰し、教科書などに載せなければろくなことにはならない、と思われてなりません。そうした真の勇気ある人、自己責任の下に信念を貫いた人を顕彰しないと、子どもは授業が面白くないだろうし、勇気や公徳心を育まれなければ、愛国心や希望も養わせることもできないでしょう。
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