舞鶴引揚記念館には、これまでに250万人以上の入場者があったようです。また、やっと昨年から小中学校が生徒を引率するようになったとか。ドイツでは、旧ドイツの罪状をあからさまにする施設を随所に作っています。それは諸外国の理解を得たり安心感や信頼感を抱いてもらったりするためですが、そこに小中学校の生徒を引率して、子どもたちに新生ドイツへの信頼感や誇りとか愛国心を養わせるために生かしています。
舞鶴引揚記念館は、ドイツの事例とは違い、加害者としての施設ではなく、被害者としての施設かのような一面もあります。しかし、不戦を誓いたくなる展示や説明がなされており、好感をいだきました。こうした施設が多くの人々の目に触れて、不戦を誓う人を増やし、凛とした態度で国際社会に望む人の育成に生かし、輝ける日本にしてもらいたいものです。
舞鶴引揚記念館で、シベリアに抑留されたのは日本兵だけでなく、19カ国430万人におよんでいたことも知りました。そのうち、ドイツ兵が一番多くて230万人、ついで日本兵が60万人であったとか。また、ヨーロッパ戦線でドイツの捕虜になったソ連兵もシベリアに抑留されていたことも知りました。
日本兵は抑留される前に3ヶ月分の食料を携帯しておくように指示され、携帯して出立したそうです。「東京に帰ろう」と促されて汽車に乗り込んだようですが、その後2〜3週間で3ヶ月分の食料を食べ尽くしてしまい、シベリアに連れられてから飢えに苛まれたようです。なにせソ連はモスクワ近くまでドイツ軍に攻め込まれるなど辛酸をなめており、2。000万人からの戦死者や餓死者を出した国ですから、急には食料を調達できなかったのでしょう。
ソ連に抑留された後も、日本兵の間では旧日本から与えられた階級差を笠に着て恨みを買うようなことをした軍人がいたようです。それが尾を引いたような悲劇が帰還船の中でも生じていたようです。その原因も、元をただせば旧日本の体質や風土にありそうです。それらを払拭するためでしょうか、近く提訴を計画している抑留者がいます。
満州への分村移民に応じた農民男性は徴兵されないと聞いていたようですが、現地で徴兵され、武器も与えられずに取り残され、シベリアに抑留されたりしています。逆に、情報量に恵まれていた正規軍は、敗色が濃いことをいち早く知ったわけですが、分村移民した開拓民には知らせずに、武器を携帯して撤退しています。だから、夫や父を徴兵された開拓民の女子や老人は右往左往したとのこと。『満州開拓史』によれば、ある地点で合流した婦女子約1500名は、8月16日に逃亡をはじめ、幾度も渡河しながら南下し、9月3日に別の集団と巡り会っていますが、その時の生存者は274名と5人に1人以下になっています。
日本兵としてシベリアに抑留された男性は約60万人で、6万人が帰らぬ人になり、その悲劇はしばしば聴かされてきましたが、開拓民は長野県の例だけでも33,741人中16.600余人が帰らぬ人になっていたわけです。しかも、日本に帰還後も異なる辛酸をなめたわけです。その悲劇も私は学校で習っていません。
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