人間の尻ぬぐいはやるせなくなります。

 

 楓の治療を始めました。切り取る何らの根拠も有しない人が、常習的に切り取った枝の跡の尻ぬぐいです。私が一番問題にしていることは、枝の切り取り方です。医者が手術をするように、楓を痛めつけないように切り取って欲しい。楓を愛でるようにして切り取って欲しいということです。

 見る人が見れば、枝の切り方一つで、愛でた切り方か、痛めつけた切り方か分かります。半歩譲っても、きれいな切り方か、汚い切り方か分かります@。とにかく残虐な切り方です。現実に、そこから木は傷みます。だから、楓がかさぶたを造りよくするように治療したAわけです。

 とりあえず、初日2時間を掛けて、公道に地階部分の木の治療に手を付けました。これからもっとひどい木の治療をしなければなりません。いたいのです。公序良俗に反して伸び出している枝なら切り取ってもらって結構です。現実は逆で、公序良俗に反して切り取られたのです。しかも木にとっては残虐な切り取り方です。それだけにやるせない。

 京都市所有の小倉池を勝手に埋めて道にした人がいることはかつて触れました。その道を根拠に建築申請を出し、京都市に許可を得たのです。もちろん今も、法務局の地籍図では、埋め立てられた道の部分も小倉池のままです。

 その住人が、池の方に張り出したわが家の庭木の枝を勝手に切り取りました。好き勝手に切り取りつづけておれば、その下の池を埋め立てて造った道の所有権を主張できるようになる、と考えているのかもしれません。

 小倉池にくる鳥を撮影するために通ってくるカメラマンが大勢います。そのカメラマンとトラブルを起こしたこともかつて記したように思います。そのカメラマンも、何かを察知したようで、地籍図を調べ、対抗していました。それをきっかけに、私はカメラマンと知り合いになりました。

 それ以前に、小倉池の所有権者を特定する裁判を小倉山自治会として起こしています。もちろん私も原告の1人になりました。そのときに、相手が選んだ弁護士は、京都市の顧問弁護士でもある人でした。判決は出ず、和解でした。池は京都市のものと認められました。だが、道は出来ているのだから、裏の住人も通してあげなさい、でした。

 裁判を起こす前に、その住人を小倉山自治会の代表者会議の席に呼び出しました。小倉池が京都市のものと特定できたら「道を取り払って出てゆく」と約束させました。だが、後で出た裁判所の和解内容の方が有効と考えたようで、居座っています。問題は、京都市が動かないことです。

 表の公道に張り出したわが家の楓の枝は切りません。モミジのトンネルになっています。池側に張り出した枝があると大勢の観光客が不法の道に踏入り、記念撮影をします。さらに奥に紅葉を愛でながらで歩んで行きます。それが不愉快なのかもしれません。

 やっかいなことです。小倉池を無断で埋め立てられながら、京都市に所有権があると京都地裁が決めた後も京都市が黙っています。京都市は間違った建築許可をおろしたのであれば改めるべきです。だが見ぬふりです。警察も、京都市が動かないのに、警察が動ける訳がない、と言う態度です。こうした例が京都市にはたくさんあるようです。

 その後、妻が楓やクヌギの枝を切る現場を目撃しました。もちろん私は飛び出して取り押さえ、警察を呼びました。その後は切り取られなくなっています。このたびの一通りの治療を終えたら、もう悩ましいことは生じないものと期待しています。
 
このままだと切り口から虚が出来、雨水などが入り腐ってゆきます。 肉が巻く組織があるところで切り直します。
防腐剤を塗ります。 別の木の例ですが、やがてこのように肉が盛りはじめます。
 
また別の木ですが、このように肉で覆ってしまえば完治です。