よくよく考えた末に。

 

かつてE・バダンテールという女史が『男は女、女は男』『XY−男とは何か?』などの著作で一世を風靡しました。彼女は、女はこれまで「産む」「食べる」「育てる」など動物の役割を担わされてきた、と指摘しました。

 太平洋戦争では玉砕する多く兵卒が「お母さん」と叫んで死んだ、とさまざまな人や著作から知りました。兵卒は農家の出身者が多く、そのお母さんの多くはE・バダンテール女史がいう動物の役割をもっぱら受け持っていたように思われます。

 こうしたことをいろいろと思い出しました。

 かつての女性は人間が生きる上で不可欠の役割を担う人間ではなかったか。男性は、その不可欠の役割を担う人間に甘えて、生きる上で「あればあるに越したことがない役割」を担おうとしていたようなものだ。もちろんそれは人間としてのゆとりでしょう。だから、不可欠の役割を担う人間よりも高尚に見える一面もあったかもしれない。 たとえば農民よりも兵士、ブルーカラーよりホワイトカラーなど。

 近代の産業資本は人間が生きる上で不可欠の役割の多くを取り上げてきました。農業の工業化もその一つに数えてもいいのかもしれません。人間が生きる上で不可欠の役割を機械化、既製品化することに努めた。女性までロボット化して、機械化、既製品化を進める作業要員に組み込んだ。要は、人間を育む創造的な人間を減らし、自己完結性のない人間、つまりあればあるに越したことがない程度の仕事やマニュアルに従って動くロボットのごとき人間にしてきたのではないか。

 産業資本の発達は人々の欲望を解放し、あればあったに越したことがないモノに女性まで狂奔させ、生きる礎をおろそかにさせた。その過程で水や空気を汚し、家族の離反を進めた。より高価な車に買い換えさせるなどしてゴミを増やさせた。それで本当に子どもは幸せに感じているのか。人間が動物である限り、それでは家庭崩壊など を進めて当然ではなかったか。

 こうしたことを考えながら、台所に立つ妻の姿を眺めました。よき妻に恵まれたものだとつくづく思いました。ですから今夜も風呂焚きを担当しよう、と考えました。