生きる基盤

 

 わが国はかつて家族共同体や地域共同体を誇っていました。江戸時代が培わせたのではないかと思います。私たちは、戦後の経済成長と引き替えに、それらをないがしろにしてきました。でもそれ自体が問題だとは思いません。

 企業は心を一つにしてアメリカに立ち向い、追いつき追い越すために企業共同体の形成を試みました。家族共同体や地域共同体を通して共同体の有効性をよく知っていたからでしょう。これはとても望ましいことだと思います。

 その企業共同体を形成するために企業は終身雇用、年功賃金、稟議制度、企業内労働組合などを考え出しています。国家は年金制度や健康保険制度などを打ち出しました。それらを礎にして物的豊かさを誇る国にしています。

 こうした制度に支えられて勤労者は家族共同体や地域共同体をないがしろにしても大丈夫と考えたわけでしょう。物質主義と拝金主義の魅力に惑わされてしまったわけです。これ自体も大問題だとは思いません。

 それまで家族共同体や地域共同体を礎にして自己完結的な生きていた農民まで次々と引きつけ、産業資本の要員にしてしまいました。その過程で、農業の工業化を進め、農村の過疎化と都市や都市近郊の地価高騰を放任しました。ここまでは世界の工場となる政策として位置づければ、そう間違ってはいなかったと思います。

 問題は、企業は企業共同体に忠誠を誓わせる踏み絵のゴトクに過酷な残業や単身赴任まで強いはじめたところから生じています。勤労者はやがて過労死を国際用語にするまで企業に荷担しま す。ここに至ってもまだ(私は100歩譲って)問題だとは言いません。むしろ同情します。

 問題はこの後です。リストラという言葉を「首切り」と誤解させるような運用の仕方をしたことです。これは、勤労者が信じていた前提条件を反故にしたことになります。企業はやってはならないことをやってしまったわけです。国家は企業にやってはならないことをやらせてしまったわけです。私はそう思います。それは国家のためにも企業のためにも良くありません。

 この総仕上げを助長し、蔓延させたのが、総理の小泉さんと安部さんではないでしょうか。福田さんはここが分かっているのか、見物です。

 本当の豊かさは産業資本だけでは生み出せません。豊かな自然資本と和やかな人的資本の支えが必要です。豊かな自然資本と和やかな人的資本さえ健在であれば、物質的には貧しくとも持続性のある生活は可能です。 里地里山で生きてきた人たちは自然資本と人的資本こそが生きる礎でした。

 わが国の豊かな自然資本と人的資本を維持させていたのが家族共同体や地域共同体の文化だと思います。そこに日本の美しさがあったと思います。安部さんは、この美しさを壊すことにだくだくとして荷担する人が多いことを願って美しい国を標榜したのではないでしょうか。

 それはともかく、企業は生きる礎を崩壊させておきながら、勤労者を企業の勝手で企業共同体から突き放した。突き放さなかった勤労者には「明日はわが身か」との恐怖心を骨身に染み込ませた。

 その上に、国は企業に生きる礎を崩させておいてから、さらにあってはならないことをしていたことが露わなった。詐欺のような年金制度や矛盾だらけの医療制度などの問題です。

 私は、産業資本は非常に大切だと思います。それは『「想い」を売る会社』で訴えたとおりです。とはいえ、これにたよりきる生き方は問題だと思います。国としても、従業員としても、消費者の立場から見ても、いわんや企業にとっても不健全だと思います。

 自然資本や人的資本をむしろ優先する生き方が大切だと想います。自然資本や人的資本を大切にする生き方が人間の心を本当に豊かにするのではないかと考えています。

 少なくとも、そのありようがペットボトル入りの水など買えない野生生物を伸びやかにします。水道代が払えずに水道を切られて孤独死する人を減らします。

 一刻も早く、人間が存在しているからより多くの野生生物も扶養できるのだ、と誇れる地球にしたいものです。