丹波マンガン記念館

 

  1939(昭和14)年から敗戦時までに、724,787人の朝鮮人を拉致してきて、全国で強制労働させていた。京都府内では鉱山など9カ所で就業させていた、などをこの記念館で知りました。徴兵も望ましくありませんが、いわんや拉致者の強制労働はいただけません。

 当記念館には資料室がありましたが、有志君を抱きかかえて見学しながら、以下のようなことを考えました。

 新生国家は、侵略した国々の被害者、戦争に関する思想犯として扱った人、拉致した強制労働者、被差別強制労働者、徴兵した兵士、銃後の被爆者や戦災者などを優先し、戦争賠償すべきだと思います。さもないと、旧国家とのけじめがつかず、未来世代に大きな借財を残したり、新生国家への愛国心を萎えさせたりしかねないでしょう。

 それはともかく、暴力的な強制労働と同様に、金力による労働がまかり通っている間は、真の繁栄はあり得ないのではないか。それがまかり通ったのは、働かせる方と、働く方の両者が、山分けをする関係に、つまり自然ドロボウの共犯者でありえたからに違いない。

 やがてそれが、資源枯渇や自然破壊の原因であったことが明白となり、誰の目にも愚かなことであったと映るようになるでしょう。ところが、奴隷制度がいけないと気付くまでに時間がかかったように、自然ドロボウの共犯行為が間違いだったと気付くまでに、相当の時間を要するかもしれません。何せ、賢いはずの人間だけが、失業者を生みだしているのですから。

 有志君を抱きかかえながらこんなことを考えていると、案内してくれた友が、途中で有志君を引き取ってくれました。ヤレヤレでした。重かった。有志君は肩車をしてもらって得意げでした。その間に、陳夫妻は寒い坑道を見学しました。

 陳さんは有志君ができてから、私まで親扱いの呼び方をします。独身時代は、妻を「お母さん」と呼んでいただけですが、有志君が出来てから妻は「おばあちゃん」になり、私を「お爺ちゃんだよ」と呼ぶようになりました。ですから、有志君には、祖父母呼びする人が、台湾と、東京と、京都に、少なくとも3組いるわけです。