あだち幸さんは、両親の慈愛に恵まれたのはもとより、地域の人々に温かく見守られながら育ったのでしょう。庭には親御さんの足跡がそこかしこに残っていました。モリアオガエルが盛んに鳴く水槽@には、イモリがのん
びりと泳いでいました。屋敷の高台には畑があり、鈴なりのサクランボAの木に、小鳥が集っていました。
自然木を生かした本宅はしっとりと落ち着いていましたB。その縁側から眺める光景は幻想的でした。C〜F。
幸さんは夫と2人で、捨て猫の世話をしていました。現在は20数匹ですが、もっといたときもあったようです。それぞれの猫の個性が尊ばれていました。猫の健康状態を心配して、しばしば夫婦は言い争い、医者に走るようです。庭のあちらこちらにその墓標が見られました。近頃は、病んだ姿を見せる野生の狸が増えたと言って嘆いておられました。
アトリエに踏み込んで何かに打たれました。夫の勝さんが手作りしたという大きな画板ではデッサンが始まっていましたG。父親が独学で刻んだという仏像があちらこちらにありましたH。制作中の作品にも触れました。アトリエにも猫の出入り口Iがあり、制作しながら猫の様子をうかがえる猫のベッドJもありました。表装された作品Kにも触れました。
この小旅行の最後は、田中(でんちゅう)美術館の再訪でした。それが、美星町の旅の意義を決定的に深めました。謎解きの旅は確実に意味を持ったように感じたのです。
傲慢な言い方ですが、田中美術館の再訪は「2度目だから、感動が薄れたのだろう」と考えました。それではいけないと思って、展示品の数が少ないのを幸いに、3度にわたって丁寧に鑑賞しました。その内に、次第に、感動が薄れたわけが理解できるようになったのです。
田中の作品は実に見事なのですが、何かが物足りなかった。もちろんそれは、私の目が節穴であるからだと思います。とはいえ、平櫛田中は、美しい形態や色彩を見いだし、見事な技法で切り取り、再現することに執心する一面が強かったからではないか、との想いをぬぐい去ることができませんでした。
たとえていえば、「見かけ」だけで恋に落ちる年頃ではなくなった私には、そこが飽き足らなくなったようだ、と身勝手な解釈をしました。その目で見直しましたが、ますますその感を強くしました。みごとな形態や色彩なのに、それらを通して訴えようとする想いや願いなど、目には見えないモノがどうしても伝わってこなかったのです。
壬生寺に納められた仏画に心を打たれたわけが、作家のアトリエに踏み込んだときに半ば理解できたのですが、その理解がより一層深まったような気分になりました。それは、友禅染の駆使という息が詰まるような技法もさることながら、そこに作家の願いや想いを感じ取ることができたからでしょう。慈愛、ものの哀れ、穏やかな未来を願う想い、などを感じとり、共鳴してしまったからでしょう。
あだち幸さんは、仏画という形態や色彩を通して、形態や色彩を持たない願いや想いなど目には見えないモノを訴えようとされるのでしょう。また、そうした仏画を描く作家を登用した壬生寺に対する感謝の念などを、込められたのでしょう。
アントニオ・ガウディは一世紀以上も前に「建築とは思想を表現する手段だ」と語っていたことを思い出す旅になりました。
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