かくジェニーを迎えました

 

 類い希なる同時通訳者でもある義母の通訳で、まずジェニーのわが家でのスケジュールとカリキュラムを話し合いました。

 義母は、簡潔に娘の説明をしました。ジェニーは19歳ですが、ハイヒールを履けないようでは1人前の女性と認めてもらえそうにない、と背伸びをするようです。ジェニーの父はスイスに住んでいますが、スイス人ではなくオーストラリア人でした。ですからジェニーは将来は父の母国でファッションデザイナーとして店を構えるのが夢のようです。この人の過不足がない会話にいつも私は心を引かれます。

 主たるカリキュラムは午前と午後各2時間。途中の土日は休日。課題も与えます。などと妻が一通り説明を終えると、午後3時以降は買い物などに出かけてもよいか、とジェニーは質問しました。ひょっとすれば、午後3時を解放される時間と見たようです。妻は、過日台湾から迎えた人の体験から、区切りを設けないといけない、と考えたようです。その人は許されれば5時とか6時まで学びたがったようです。

 水曜日の午後から丸24時間、留守をすることになり、監督できなくなったことを説明しました。その24時間の面倒を見てもらうアイトワ塾仲間の2人の存在意義も説明しました。その意義を自覚し、学ぶべきことに気付いてもらうためにCDを用意し、レクチャーすることにしました。この人選は、義母のジェニー観と照らし合わせば、最高の人選であったと思います。

 1人はペンステモンを奥さんと2人で立ち上げた岡部さんです。3人の娘もよくお手伝いをしていますが、とりわけその1人は、今は製品作りでも両親を助けています。そのお嬢さんが9日の朝から10日の夕刻まで通訳に当たってくれます。彼女は英国に1年間の期限付きで両親から留学を許されましたが、結局2年間におよびました。留学先の学長が、彼女のために奨学金制度を設けたからです。彼女はその2年目に、その学校が始まって以来の国際的にすばらしい授賞をしています。

 翌日の面倒を見てもらうのは、弓月を立ち上げた野中さんです。和装のデザイナーとして、奥さんと二人三脚で、和装のトータル設計から小売販売までする会社を興し、経営しています。上七軒という格式の高い花街(かがい)にある130年ほど前に建った京町屋をいかしたブティックも魅力的です。京都の和装業界は沈滞していますが、弓月は果敢に気を吐いています。市場が縮小する中にあって、いかに工夫すればよいのかを示唆しているように思います。

 この両社で、ジェニーは学べます。通訳してもらうお嬢さんも留学中に同じような夏休み期間のカリキュラムを経験したようです。彼女は、大手の企業で学ぼうとする傾向にあった時代に育ったようですが、私はこの両社を選びました。工業社会が生みだした「消費者」と「ファッション・ビジネス」は、共に変容を迫られています。ポスト工業社会は、環境問題や資源枯渇問題などを視野に入れて創業した企業に微笑みかける時代だと思います。

 たとえジェニーがよいセンスをもって生まれていたとしても、時代の要請を見定めていないと、そのセンスが災いし、彼女をミスリードしかねない恐れがあります。つまり、環境破壊や資源枯渇などを加速する触媒のような立場にさせかねません。そうと見透かされたら、早晩相手にされない立場になりかねないでしょう。そうした心配がレクチャーを思い立たせたのです。

 こうしたスケジュールとカリキュラムの打ち合わせの最中に、弓月の野中さんが訪ねてくれました。野中さんと岡部さんは、しっかりとした方向を見定めているだけでなく、夫婦で二人三脚を組める人たちです。ジェニーは、そうした人に指導を仰げるのです。岡部さんは宿泊の面倒まで見てくれます。野中さんには「夏柑糖」を手みやげにいただき、ジェニーはタップリと味わいました。来客の度に同席させたからです。

 土日は、優れた友禅染作家とそのお嬢さんの世話で、タップリと日本の文化を満喫することでしょう。

 

ペンステモン 弓月