先週末の飲み会から、発言者の数を絞ることになり、その1人に私は数えられていました。トップバッターは中国嫌いで知られた男で、ドバイを話題にしました。海外駐在に続く駐在を繰り返した男で、私は若いころにデュセルドルフで世話になっています。彼に日帰りで500kmも離れた地に案内してもらったのです。「森君、雨やからな、遅なるぞ」。アウトバーンはドイツが誇る高速道路だけに、通常は最高速度制限はなく、最低速度制限があります。しかし、「雨の日は、(最高速度制限があって、時速)140kmしか出せんのだ」。その男が、ドバイの繁栄に目を見張ったのです。その繁栄は「異常だ」と訴えました。私はドバイを10数年前に訪ねたきりですが、砂上の楼閣と見てとり、紙誌などで印象記を残した思い出があります。
私は、NZ旅行談から切り出そうとしましたが、その瞬間に「待った」がかかり、ドバイに触れた男が「森のラジオビタミンを聴いた」と報告しました。ありがたい前座になりました。
NZは、「人口が少ないセイもあるが、自動車やテレビの会社はない。残業や単身赴任、公害などを伴いがちの産業、と見てのことだ。子供たちにとって大切なことは家族そろっての食事や、残すべき資産は、美しい空気、水、土地などと考えており、農業国として生き、羊などのゲップ(温暖化の一因)に課税している」と切り出しました。NZ駐在体験者が補足してくれました。
次に、このところ「雲南省の少数民族にも目を向けている」と話題をかえました。「三国志の時代に勇猛でならした騎馬民族が、漢族に追われ、いわば平家の落人村のように、山奥で村落を形成していた」「馬や武器を捨て、棚田を開き、息を潜めて生きてきた」「家族が肩を寄せ合い、村人同士で助け合い、自給自足の生活をし、土地柄にあった個別の文化を築き上げている」
「わが国はこの両者に見習い、生き方を考え直すときではないか」と結びに入りました。「日本人は、世界中の人が真似たら、地球が2、7個も必要になる生き方をしている。急いで1つの地球で済ませられる生き方を編み出し、模範を示すべき時だ」「武器を捨て、その模範を示すべき時だ。アジアの人々はそうした日本を求めている」
次いで中国通の男がスピーチに、最近聴いた中国人の声の紹介から始めました。「中国は大きい」「人が多い」「どうしようもない」「10年前、20年前と比べて、今に満足している」「誰が(政府?)じゃまをしようが、世界のことを知ることができる」「なにはともあれ、家族や地域のために頑張りたい」など。もちろん冷凍餃子の話題も出ました。賢い(中国)人は「原因は中国側にあった、と気付いている」「問題が長引き、おびただしい数の(中国)人が失業している」「それにしても、なぜ(日本人は)冷凍餃子を食べるのだ」「家族でつくって、家族で食べるものと違うのか」など、と中国贔屓の意見が続きました。定年後も、この男は私費で中国に通い続けていたのです。
質疑の中に、「ワシは中国に文句を言いたい。なぜ日本にミサイルを向けているのだ。その間は信用できない」との意見も飛び出しました。もちろん反対意見もありました。「資源小国の日本に何の魅力があるのか。攻めて甲斐のある対象ではない」「まず日本は、過去の歴史的事実を明らかにすることに努めるべきだ」など。
このような話題で、飲み会は1時間以上予定時間をオーバーしました。結局、ある男の提案で、次の飲み会までの間に「森の家を見学に行こう」と言うことになりました。この男は、独身寮時代からのつきあいのある1人です。どのような話も茶化す男でしたが、この日は違いました。数分にわたって演説しました。参加者全員が意外な一面を見た思いがしたようです。
同時に、やるせない思いをした人が多かったようです。青春期に、5回にわたる海外赴任で、通算すれば17年間も単身生活をした、という人が大勢いたからです。逆に、中国贔屓の男は、北京駐在の折に家族を同伴したのですが、結局「女房は3日と我慢できなかった」「すぐに日本にひきあげてしまった」と、嘆いていました。今もその男は1人で中国通いです。
私は、70年代に入ったころから、工業社会に狂奔する商社に不安を感じ、つまり経済戦争に不安を感じ、ポスト工業社会を切り拓く触媒のような会社にすべき、との意見の持ち主になりました。でも、説得力がなく、商社を去りました。そのころの思いを、このたび改めて開陳したわけです。その結果「森の家を見学に行こう」になったのです。私は胸を打たれました。なぜか集まっていた仲間と、戦時中の特攻隊員の姿が二重写しになったのです。
だからこうして、30年も前に飛び出した私を仲間として呼んでくれていたのだ、と感じました。
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