思い出の碑

 

 アイトワの庭には記念樹がたくさんあります。インパクト21社は1993年夏の株式店頭公開を記念して植えたヤマボウシに始まり、2003年の21グループ3社合併記念のベニシダレザクラまで、6本もの記念樹を植えています。私なりに思うところがありましたし、父が私の思うところに共感してくれましたので始まった記念樹の植栽でした。

 インパクト21社は、当初は都内の公園に植えようと考えて植樹を計画したようですが、埒があかなかった、とのこと。「所有権と手入れの責任は」に始まり、「枯れたときは」との仮定に続き、とどのつまりは「子供がのぼって落ちて怪我をしたときは」との設問に至り、お手上げになったようです。都の職員の子どもを配偶者にと願い、親の許しを求めに行った人は嫌気がさすのではないでしょうか。子どもの場合は「話は別だ」というなら、どちらの話が責任感に富んだ思考でしょうか。あるいは誠実な態度でしょうか。

 それはともかく、インパクト21社とは、創業記念式典に始まり、その節目節目で企業のあり方を語る機会を与えられた関係でした。幹部の勉強会をアイトワで開いたこともあります。消費者に誠実な経営に徹し、増収増益を続けられました。

 最初のヤマボウシは、アメリカハナミズキと同じ仲間ですが、アメリカハナミズキと違い、花を天に向けて咲かせます。ですから、咲いていることに気づけないことがよくあります。そこが気に入って勧めましたが、翌年の夏を越すのが大変でした。猛暑と雨不足に悩まされたのです。そのときと同じような雨不足の夏を私は予測しています。

 最後になったベニシダレザクラは、アイトワで植栽した最後の高木になる木になりました。大きくなる木を植える余地がなくなったからです。その後も記念樹の植栽をする要望に恵まれていますが、侘び助ツバキや姫サラなどのこじんまりした木にとどまっています。

 インパクト21社は、アメリカのポロ・ラルフローレン社と日本企業の合弁会社でした。記念樹の植栽は初代の鳥越社長に頼まれてのことです。その後、社長は何度か交代しましたが、榎本さんは創業時から常にNo.2マンの立場を維持し、記念樹の植栽に一番多く手を染めた人です。また、合弁会社最後の社長を務めました。

 その後、予期していたとおりに、ポロ・ラルフローレン社が全株式を買収しました。榎本さんはアメリカ会社の初代社長も勤め、すべての既存得意先に事情説明に回り、円滑にビジネスを移行させました。そして、4カ月前に退任の挨拶回りとなったわけです。

 これからアメリカ流の経営が始まることでしょう。そして、これまでの繁栄を支えた社員の多くが去ってゆかざるをえなくなることでしょう。その人たちが、勤労上で注いだ情熱の足跡をたどりたくなったときは、どこに行けばよいのでしょうか。その小さな足跡が京都に残っていてもいいのではないか、そう思って受け入れて植樹です。

 こうしたことを大切にしないと、日本はだめになってしまうでしょう。家族共同体や地域共同体を大切にしていた日本人に、企業共同体への忠誠を迫り、就職ではなく就社させるようなことをしてきました。結果、家族共同体や地域共同体をぐちゃぐちゃにさせました。だから企業は繁栄したといってもよいでしょう。にもかかわらず、その成果は「資本」が取り上げてしまい、「労働」はリストラしほうだいの世の中にしてしまった。日本は、ちょっとやそっとでは立ち直らないと思います。

 その兆候はすでに随所に現れています。『蟹工船』が見直されたり、『鶴彬』が振り返られたりし始めたのもその兆候でしょう。鶴彬や小林多喜二は、当時の指導層の手先によって暴力的に惨殺されましたが、今の日本ではもっと巧妙で陰惨なことを生じさせています。それは家庭崩壊や自殺者の数にも現れつつあるように見ています。

 こうしたことを予見して、危惧して、受け入れた記念植樹でした。私の力が及ぶ限り、これらの木と碑を守りたく思っています。この木や碑は、インパクト21社に勤めていた皆さんのものだけとは限らないと位置づけて、守っています。

 あらゆる企業などの組織やそのブランドとか社名などに忠誠を誓いながら、その足跡さえ残させてもらえなかった人たちの碑であり記念樹、と私は見ているわけです。