それは『サルボダヤ 仏法と開発』(1984 めこん)です。
私は15年ほど前に、この仏教学者の著作『世界は恋人 世界はわたし』(1993 筑摩書房)を読んでいました。このたび『サルボダヤ
仏法と開発』に触れたのを機会にこの著作を見直しました。驚いたことに、『世界は恋人 世界はわたし』の中でサルボダヤ運動が採り上げられていたのです。「サルボダヤ
すべてのひとのめざめ」という1章として採り上げられていたのです。
拙著『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』(2004
平凡社)で、私はサルボダヤ運動を未来を明るくする1つの大きな可能性として採り上げています。にもかかわらず、『世界は恋人 世界はわたし』で紹介されていたことに気づいておらず、いわんやそれ以前に出ていた『サルボダヤ
仏法と開発』など探そうともしていなかったのです。それはどうしてか。
そう考えて読み直しました。そこに人間の弱点を見る思いがしました。
ジョアンナ・メイシーは、フォード財団の助成金をえて1979年6月から1年間、スリランカに滞在し、サルボダヤ運動の現地調査をしていたのです。にもかかわらず、サルボダヤ運動の目的には触れておらず、その手段だけを克明に調べて『サルボダヤ
仏法と開発』で報告したわけです。私は、サルボダヤ運動の目的が、フォード財団の姿勢や態度と相反していたがゆえに、あえて触れなかったのかもしれない、と考えました。
そこで、『サルボダヤ 仏法と開発』から約10年後に著された『世界は恋人 世界はわたし』を読み直したのです。サルボダヤ運動の目的は、そこにも記されてはいませんでした。彼女は仏教学者ですから、目的には触れなかったのか、興味がわかなかったのか、それとも聞いても意識に留まらなかったのか、などと考えました。
「あってほしくない」あるいは「ありえない」との既成概念が邪魔をしたとは思えません。それ以前の、もっと深い問題ではないかと考えました。工業社会に対する信奉の問題です。工業社会の破綻など夢想だにしていなかった、だから「聞けれども聞こえず」になっていたのではないか。もしそうだとすると、これこそ人間の弱みではないでしょうか
サルボダヤ運動の目的は、農業文明の段階に留まっている国々が、工業文明などに寄り道をせずに、直接次の生き方に移行することです。農業文明や工業文明に次ぐ文明を切り開こうとしているわけです。その手段として、仏教を高く評価しています。仏教の思想をうまく活かそうとしているわけです。
私たち日本人は、ドイツが無人の兵器のV-1やV-2を考えていたときに、特攻機、回天、桜花、震洋、あるいは咬竜などという有人兵器まで考えました。それが日本の良さかもしれませんが、そこが弱点であることも事実ではないでしょうか。
常寂光寺の臨時の鐘を聴きながらこんなことを考えた1週間でした。
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