買ったもので済ませたくない

 

 理想は、自分で作ったものを供えたい。次善は、手作りした人からの頂き物を用いたい。このような順なら、お祈りがしやすい。

 @はわが家流のお盆のお膳。僧侶を迎えて棚経をあげていただく日の朝に作ります。年に一度のことです。その朝は、亡き両親にお供えするお膳と同じものを、僧侶をお見送りした後で私たち夫婦も味わいます。このお膳は私たちの食事が終わるまでお供えしておき、お下がりは、わが家では愛犬の餌に混ぜ込んで、愛犬に味あわさせます。

 Aは、お供えの野菜や果物。今年も庭の恵みと頂き物だけで間に合いました。私が死んだあとは、こうは行かないでしょう。そのときのために、ミツバや宿根ソバなど野生化する野菜を庭で自生させるように努めています。シュウカイドウ、ヨメナ、フジウツギ、オオタデなどの花もはびこらせています。これなら、妻がその気にさえなれば、何なりと供えられるでしょう。私はそうした供え方なら、むしろ1本のヨメナのほうがうれしい。

 Bは、妻が早朝の庭で摘んだ花で造ったわが家流の今年の仏花です。父は、庭の花で造る仏花を好みましたが、母は好みませんでした。「菊が入っていない」とかいってムズカリました。ですから妻は、菊を買ってきて加えていましたが、母のご機嫌は斜めのままでした。両親がともに生きていたときは、お盆が来るたびに、仏花が議論のテーマになりました。

 それは母が「世間並み」の仏花を好んだということもあるのでしょうし、庭の花で間に合わせようとすることをケチンボウと見ていたフシも関係していたと思います。それは既存の文化を大切にするという意味で、私も一定の評価はしていました。しかしもっと大切なものがある。

 私は逆に、たとえ機械で作ったものであれ、誰が、誰のために、どのような気持ちをこめて作ったのか、花であれば、誰が、誰のために、どのような気持ちをこめて摘んだり、買ったり、供えたりしたものか、にこだわります。

 つまり、量や価格で消費を競うようなことは卒業しなければいけない時代だと思うのです。循環型の社会を構築するために、新しい文化を創出する時期だと思うのです。

 母亡き後は、妻はやっと思い通りに仏花を作れるようになりました。早朝に起きだして、花を摘んだり、お膳に用いる野菜を収穫したりすることから始めます。でも、それだけでは気が引けるのか、生前の母の小言が気になるのか、お墓に供える花は花屋に走って買い求めていました。仏壇でも、母好みの干支の飾り物などを飾るようにしています。この「子」の飾り物は知人の手作りで、頂き物です。

 

@わが家流のお盆のお膳 Aお供えの野菜や果物
B妻が早朝の庭で摘んだ花で造ったわが家流の今年の仏花