町医者

 

 「この人なら命を預けて悔いがない」と思う配偶者、医者、教師、先達、友、部下などに恵まれた人を、私は幸せな人と思います。両親はそうした医者に恵まれて死にました。このたび妻は、その町医者に私を連れてゆきました。

 そうした医者には、自分たちの体だけでなく、性格や性質はもとより生活も理解してもらいたいものです。その上で、体と心を預けるのがあるべき姿ではないでしょうか。

 このたび、久しぶりでこの町医者を訪ね、目診や問診はもとより聴診器と打診でも丁寧に見てもらったうえに、吸入や点滴もしてもらいました。ですから1時間も医務室で過ごしたのですが、その間にその医者や看護婦さんなどの動きを垣間見ながら、北欧の医療制度を思い出しました。

 北欧などの医療制度は、市民一人ひとりが町医者を選び、主治医として登録します。眼科、外科、小児科などに関係なく、人間として信頼する人を選びます。そして、医者の手を煩わさざるを得なくなると、病気は何であれその医者に駆けつけます。その医者の手に負えないときは、適切な処置を施せる病院など施設を紹介します。いきなり患者が、施設、機器、あるいは技量や技術の風評などを頼りにして自ら総合病院に駆け込んだり、いわんや病院を渡り歩いたりすることはありません。

 もちろん主治医は、適切な処置を施せる病院などの施設を紹介して終わりではないようです。最低でもその施設から主治医の下に治療結果を示すカルテは届くようですし、治療過程で両者が相談もしあうようです。両者が責任をなすりつけあうような態度はあってはなりません。

 町医者の収入は、いかに多くの人から主治医として指定されているか・その数と、指定された人たちをいかに病気にしていないか・その医療費の額の少なさで決まります。ですから町医者は自転車に乗っていることが多い。街角で指定してくれた人を見かけたりすると呼び止め、舌を出させたり瞼をめくったりして「なるべく早く来なさい」などと助言したりするようです。あくまでも治療ではなく予防に重点を置いているわけです。

 話を冒頭の「この人なら命を預けて悔いがない」というところまで戻しますが、そうした人にめぐり合えたら、甘えあってよいのではないでしょうか。今は亡き父は、そうした心境の下でそのエピローグを飾ったように思います。

 それはともかく、このたび、マムシに咬まれたとき以来、20数年ぶりで点滴を受けました。