私が移り住んだ当時、この村には常寂光寺や落柿舎を含めて建物は16軒しかなく、「隠れ里」と呼ばれていました。1958年ごろまで、小川には小鮒やメダカが、水田にはタニシやマイマイが棲み、天空には鳶が舞い、田植えごろに夜道を自転車で走ると蛍がほほを打ちました。
私は5歳から住み着きましたが、小学生の私は、成人前の姉に「小督の局」が隠れたという木の祠(ほこら)に案内されたことがあります。樫の古木にできた洞でした。小督の局とは、「平家物語」に登場し、高倉天皇の寵愛を受けたことで清盛に憎まれ、嵯峨野に身を潜めた女性です。
今から思えば、平安時代の樫の木が今日まで残っているはずはないのですが、私はとても感動しました。その祠の前にクモが巣を張っていたから、追跡者は見過ごした、と姉が説明したように記憶しています。渡月橋より上流の保津川北岸にあります。
同じ頃に、小倉山の裾伝いに、クワガタムシを求めて北に向かって探検し、忽然と現れた寂れた史跡に感動しました。後年、それは「徒然草」に登場する史跡で、「化野(あだしの)」念仏寺のおびただしい数の小さな無縁仏群であったことを知っています。
その念仏寺の隣に、楓に覆われた茅葺の小さな庵がありました。紅葉にはまだ早い時期でしたし、たたずまいもとても寂れていました。後年私は、母から「それは祇王寺で、智照尼さんよ」と教えられました。その尼は、元は名声を馳せた芸者で、失恋を機に隠棲した人です。さらに後年、その失恋のエピソードを知るところとなりますが、そうとは知らずに私は小さな楓の苗木を幾本ももらっています。現在ではアイトワの門扉の先に、とても太い幹なのに背が低い楓がありますが、元は芽生えて2年目ほどの苗でしたし、2度の移植に耐えたものです。アイトワのもみじのトンネルをはじめ多くの楓はそれらの種から増えたものです。
祇王寺は、清盛の寵愛を受けながら見捨てられ、世をはかなんで隠れ住んだ姉妹・祇王と祇女の庵です。そして、この姉妹を失望させたのは仏御前ですが、彼女も清盛の心を捉えたのはつかの間で、やがて同じ境遇に陥れられ、この姉妹をたよってこの庵(祇王寺)を訪ねており、この姉妹と一緒にひっそりと棲んでいます。
西山の一帯は、平家物語、源氏物語、徒然草、小倉百人一首などの舞台になったり、その主人公や筆者がそぞろ歩いたり佇んだり隠れ住んだりしたところです。まさに1000年以上の昔から京の西庵であったわけです。
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