先週の事件

 建築家、山本良介さんが「この1枚を見ていただきたかった。この生活感、生の営み自体が観光資源です」と指摘された写真が先週末に届きました。所望し、心安く応じていただいたものです。焚き火の煙がそういう印象を与えたわけです。@

 この発言を聞いたときに、隣に座っていた妻がモゾモゾし始め、講演が終わるとすぐさまスライドを操作していた人のところに駆けつけました。この写真はいつ撮影したものか、との質問をするためでした。それは10月18日の午後のことです。

 同じ時刻に、この煙の下で問題が生じていました。この煙は、あるお宅が庭師を入れ、刈り取った木の枝葉を燃やしたものです。この煙を察知した見知らぬ男性がそのお宅を訪れ、「周りの人がみんな迷惑している」「消さないと警察に訴え出る」と脅し、すぐに焚き火を消すように迫っていたのです。

 妻はその話を聴いて、何かすっきりしない気分にされたとみえて、即刻私に話してくれました。私は腹立たしさを通り越して哀れみさえを感じました。

 私はすべての煙を容認せよといっているわけではありません。逆に、すべての煙を恐れたら大変なことになると心配しているのです。

 人間は火を操ることでヒトから人になった、つまり一種の動物から人間になったといって過言ではありません。拝火教もありますし、松明が祭りのシンボルである例も多々あります。お寺で参拝するときに線香の煙を競うようにして頭からかぶる人もいます。

 火や煙、水や空気の是非を峻別する能力は人間にとって基本的な生きる力です。これらを上手に操る能力を失うと、断水、停電、あるいはガスの不通などが生じるだけでパニックになりかねません。とりわけいつ何時大震災に襲われないとも限らない今日、そうした不安を抱えた生き方、つまりライフラインに支配された生き方は情操上でとてもまずいことだと思います。

 それだけに、山本良介さんは、煙がたなびく光景に接して、人間のたくましい生の営みを感じ取り、ほのぼのとした感動をおぼえられたのでしょう。

 繰り返しになりますが、火を上手に操り、煙の色や匂いで、その火の元の是非を見分ける能力を保ち続けなければ、人間としての情操までが崩壊してしまうに違いない、と恐れるわけです。

 それがゆえに、山本良介さんの感動に、私が感動したわけです。

 逆に煙と見ただけで恐怖を感じ、「周りの人がみんな迷惑している」と私まで同類項に入れるような発言をした人を気の毒に思ったわけです。

 山本良介さんはよほど感動されたとみえて、残り2枚ABも、撮影場所や角度や時間を変えて撮っておられたわけです。
 
@ A
 
B