入院中の備忘録
 

  2008年11月9日の夕刻、救命救急センターにたどり着き、そのまま入院でした。20分ほどの間に医者が次々と変わり、心臓の疾患が肺に大量の水を貯めていたことがわかって担当医が決まり、移動式ベッドで救急病棟に搬送されました。利尿剤の点滴で、1時間おきに大量の尿が出ました。やむなくシビンを初めて用いましたが、大までベッドではいやだと訴え、押し通しました。それが、別のひどい目にあわせることになったわけです。

 翌日からさまざまな精密検査の上、21日金曜日にカテーテル検査となりました。私は検査の目的を、担当医に欠陥のある心臓であることを認識してもらうことと見定めました。担当医は、病名を特定し、冠動脈にの細くなった部分を発見すれば、即刻治療することにしていました。

 私の心臓は、かねてから肥大しているうえに弁が緩み、逆流現象が生じているだけでなく不整脈が出る、というところまで自覚していました。この欠陥は、短大時代の定期健診がきっかけで認識しました。学長の白羽の矢がたつ直前に不整脈がわかり、心臓病に関して京都では高名な病院を訪れ、カテーテル検査でわかりました。移植手術をするに価しない年齢なので投薬治療に入りました。しかし、まず服薬を中止し、やがて通院もやめました。投薬の実験台じゃあるまいしとの気分になり、「自分で治して見せる、だめならそれは運命」と、心に決めたのです。

 このたびは違いました。同じく若い医者でしたが、この人ならわが乗り合わせた船を任せよう、と思いました。私にとっての医療は、設備の良し悪しは2の次3の次で、腕前も似たような次元の問題です。大切なことは、より腕前を上げてほしくなる医者であるか否かが第一の選択基準です。医療には常に過誤が伴うはずで、その過誤まで受け入れたくなる人かどうか、が問題です。

 入院して5日目から、一般病棟に移されました。今から思えばそこで酷い目にあったのです。同じく4人部屋でしたが、隣人がものすごい騒音を発する人でした。カーテン1枚はさんだ隣から、けたたましい騒音が終始襲ったのです。当初は、野戦病院はこんなものではないか、と体験を喜びました。やがて「修行」と思い、昼となく夜となく目覚めると、執筆に没頭しました。その人の様態が、私の検査の前日に急変し、救急センターに戻され、私は熟睡です。

 検査は1時間遅れで、手術室に車椅子で運ばれました。入れ違いに前の人がベッドに乗せられ、土色の顔色で運び出されました。1時間遅れの理由でしょう。私の検査はすぐに始まり、時々担当医の声が聞こえました。「息を吸って、止めてくださーい」「楽にして、いいですよ」など。

 なぜか、世の中はあまりにも残酷になった、との怒りがこみ上げてきました。入院したあとも残酷な事件が多発したからでしょう。殺された人も殺した人も、異なる時代に生まれておれば、あるいは異なる国に生まれておれば、殺されずに、あるいは殺さずに済んだのではないか、と思いました。世の中はまるで真綿で首を絞めるような残酷さが支配しており、リストラに泣く人、ワーキングプアーやホームレスに陥れられる人、自ら命を絶つ人、あるいは命を粗末に扱う人まで増やしたのではないでしょうか。もちろん、つじつま合わせのために年金記録の改竄に加担した人もその類、と思いました。きっと、その加担者は、問題が発覚していなければ組織への貢献者、つまり納付率の低下を隠蔽し、未納者の雪崩現象的増加を防いだ知恵者として評価されていたに違いない、と憶測しました。こうした真綿で首を絞めるような残酷さが、本来は誠実で感受性豊かな人の人生を狂わせるのではないでしょうか。逆に、鈍感で不誠実な人は国家の威信を傷つけていることに気付かず、シャアシャアと税金を貪り食うのではないでしょうか。そこまで考えたときに、また担当医の声が聞こえました。「血管には問題がありませんでした。これから心臓を調べます」「熱く感じますが、心配ありません」。

 このときに私は、乗り合わせた船を操船し続けられそうだ、と思いました。ならばこの船をどこに向かわせるべきか。何のために活かせばよいのか、と考えました。しかし、結局、私に出来ることは、これまで通りに、身の程を知り、足るを知る生き方を貫くしかない、と思いました。残酷な時代だが、犠牲にされずに済ませる道があることを実証してみせ、それが同時に世直しにも結びつく生き方なんだと広く理解が行き渡るまで自分なりの役割を演じ続けたい、と思いました。ちょうどそのときに、「森さん、終わりました」と担当医の明るい声が聞こえました。

 結果は、思っていた通りでした。血管は異常なし。むしろ、心臓が以前より弱り、それだけ大きくなったぶん血管は立派になっていました。つまり機能が落ちた心臓を大きくすることで埋め合わせ、そのために血管を驚くほど立派にしていたわけです。「けなげなこと」と思いましたが、妻はブラウン管に映し出された一般的な心臓と比し、私の心臓とその心臓にへばりついた血管が2倍以上も太くて大きいのを見て、少し不気味に感じたに違いありません。

 成果は、肺に水をためる新たな弱点を知りえたことです。これからはこれを一病息災にして、ポンコツ心臓を15年は持たせたい、と思いました。こうした認識の下に病室に戻りましたが、その直後に「もう歳だ(古希)」と思い知らされる電話がありました。

 かねてから、ある大学からまんざらでない要請を打診されていたのですが、それは私が70歳を越えているとは知らずにかけてもらった声であったようです。相手は私が検査直後の病床で受けていることをご存じありませんから、とても明るい声の応対に驚かれたことでしょう。

 なお、この入院で辛かったことは、手首の苦痛でした。検査の直後から一晩じゅう悩まされ続けました。カテーテルを差し込んだ頚動脈の穴をふさぐために、傷口を圧迫します。実は、この辛さを記しておきたくて、この備忘録を発想したぐらいです。なぜなら、この苦痛を、あるいはこれ以上の苦痛を、前回も体験していたはずですが、すっかり忘れていたからです。そのついでに、今なら記せる検査中の心境の移ろいも、と範囲を広げました。そして、検査の間、一番心配をかけた妻のことを一度も頭に描いていなかったことに気づき、申し訳なく思いました。

 他にも入院中に、すばらしい体験をしました。人間は怠惰を好む動物のようだ、と肝に銘じました。2週間の入院中に14人の患者仲間に触れましたが、中には怠惰を決め込む人がいました。ベッドの上でヤマネのように丸くなって終始居眠り、看護婦さんに促されても散歩に出ようとしない人さえいました。筋肉が退化し、寝たきり老人になるのでは、と心配でした。

 何かの菌に侵され、肝心の手術を受けられない体の持主も2人いました。傷口が化膿し、抗生物質では効かない人でした。かねてからこういうことがあるとは聞いていましたし、それ以前からこうなるに違いないと思っていましたが、目の当たりにするとは思っていませんでした。

 次に、奥さんが毎日昼前後に訪ねてきて、2時間も3時間も過ごされる患者もいました。私たちより一回り以上高齢のご夫婦で、かつては大学の教員であったとか。このようなむつまじい仲になりたいものだ、と思いました。しかし、その夫婦が、周りの人のことにはまったく気が回らないことも知り、驚かされました。ご主人の凄い寝言やいびきとか無呼吸現象には同情したのですが、正気のときの騒音に閉口したのです。トイレのドアーをバタンと閉め、電気を消さない。TVで相撲が始まると静かになるのに、終わると息を荒げ、大きな声でうなりだす。それを見舞いに来た奥さんはいたわるばかりで、いっさい注意をしない。こうしたことが嘆かわしかった。

 最後は楽しい思い出です。検査が終わり、病室に戻った直後に、隣の空きベッドに新たな患者が入りました。その後、それぞれ理由は異なりますが、ばたばたと2つのベッドが空になり、この新たに隣人と、翌朝退院してもよい私の2人だけで連休を迎えました。

 この男は糖尿もちのやくざっぽい人でしたが、若い看護婦は気安く説教していました。院内の売店で甘いものを買って食べたり、タバコを吸ったりしたようです。電話で誰かに「親からもろうた腹を、生まれて初めて割って、血管を取り替えんなん」などと語っていましたが、担当医から手術時の立会人を求められると「天涯孤独」で通しました。

 翌日、私は妻の迎えを病室で夕刻まで待ちました。いよいよ最後の夕食が運ばれたときに、私はベッド用のテーブルごと夕食を隣に移動させ、この男と一緒にとることにしました。

 この男は、「病院は神聖なところでっしゃろ。そこに家族なんか呼んでどうなりまんねん。呼ばれたほうも迷惑でっしゃろ」と切り出しました。このときに、私と同い年だということや、奥さんは健在で、立派な息子や娘を育て上げたことも知りました。ひと声かけたら駆けつける仲間や女性もいるようでした。たとえば常連の飲み屋の女将など。

 次に、この男が、先生と呼ばれる立場の人を一まとめにして小バカにしていることがわかりました。「キャッチボールしたら、顔で受けるようなやつがのさばる世の中でっしゃろ、それでようなると思いまっか」といって社会情勢を非難しました。私は反撃するところは反撃しました。「医者にかかるなら命を架けてかからんといかん。架けられんのなら、かからんほうがよい」、と。反論ナシでした。しかし、2人の医者を例に引き、話を続けました。

 その1人は、手術時に立会人を求めた医者でした。手術着に血が着いていたようです。そうと聞いて、この男がにべもなく「天涯孤独」と突っ張ったわけがよく理解できました。次に、「あの男はよい」と、私の担当医を評しました。夕食が運ばれてくる直前に、私のベッドを訪ねもらっており、別れの挨拶を交わしていました。

 「ああいう男が町医者にならんとあかん。病気やのうて人間を全般的に見る医者や。病院にいる間に、あんたみたいな人をようけつくって、開業せなあかん。専門医ばっかりつくってたらあ かん」と。ちょうどそのときに妻が現れ、この男ともう少し話したく思いながら別れました。

 かく私は無事に帰宅しましたが、妻から聞かされてしんみりとした話があります。私たち夫婦がとても仲良くしていたピアニスト・松平佳子さんが、肺に水を溜めて死んでいたのです。最後のリサイタルで、鬼気迫る演奏をすませたあと、見舞いに行くまもなく息を引き取っています。演奏の後、一人では歩けない状態で挨拶をしていました。

 ちなみに、担当医は、報告書をつくってくれました。この救急救命センターの受け入れ状態を電話で調べ、私に紹介した町医者宛です。連休明けを待って町医者を訪ね、経過報告しました。

 その間に新聞の整理をしましたが、先週の当週記に添えた社会保険庁の内部告発や元空幕長の記事と、この「私の視点」に目を留めています。

 それはともかく、この入院で、私は大勢の人に迷惑をかけました。何ヶ月も前から交わしていた約束や、参加を決めていた約束など、たくさんキャンセルしてしまいました。