得心
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森林の牧場はいわば自然放牧といえそうです@。繁殖は自然増殖に任せており、2頭の子牛が育ちつつありましたA。訪問時点では、雌の全頭が乳を出していましたが、これは珍しいことで、普段は7〜8割にとどまる、とのことでした。 乳は日に2度搾っており、その時間が来ると山から下りて来るそうです。乳を絞ってもらうために降りてくる、とは言い切れないようです。なぜなら乳を絞った後で飼葉を与えており、それが条件反射の要因になっていそうです。乳を搾らせる順番は強いもの順に並ぶとか。 多くの牛はここに来る前に角が生えないように処置されていたそうですが、1頭の雌は角を蓄えていました。案の定、この角をたくわえた雌牛が、強いもの順位では1番になっており、お互いにいがみ合わずに生きているようです。 |
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自然放牧といえそうです@ | 2頭の子牛が育ちつつありましたA |
牛は手を出していませんでしたB | 妻への土産に躊躇なくこの1本C |
山には有毒のアセビがたくさん生えていました。自然放牧に近いからでしょうか、牛は手を出していませんでしたB。檻に囲って飼いならし、飼葉にアセビなど有毒植物を混ぜて与えると食べてしまい、ひどい中毒症状を示しがちです。それは犬でも同じことで、鎖や檻で飼い、餌付けをすると、与えてモノは何でも食べがちになり、メタボ犬も現れます。 精神的なストレスを与えず、あるいは過度の安心感も与えず、自然の摂理に従わせると、生まれ持った潜在能力を発揮しやすくさせるのではないでしょうか。それが身体的にも健康な牛にして、牛乳を美味しくするように思われます。もっとも、季節ごとに餌が大きく異なりがちですから、牛乳の品質も変わるようです。それがまた美味しさを感じさせるのかもしれません。なにせ人間は、そうした牛乳と何千年にもわたって付き合ってきたのですから。 どのような人も、この牛乳を一口含めば「美味しい」と感じるに違いありません。少なくともこの濃密さは分かります。価格は一般的な牛乳の5〜6倍ですが、妻への土産に躊躇なくこの1本C、500cc630円を選びました。ソフトクリームもとても美味しかった。 妻は喜び、安さを売り物にしたものをたくさん飲むか、これを控えめに飲むかの選択ね、と語りました。妻は安さを売り物にしたものを控えめに飲む人ですが、時代は高品質のものを控えめに飲む時代に近づいていると思いました。山で伸びやかに生きている牛の姿を見たら、それが高品質の最大の条件と妻は思うでしょうし、しかも美味しいと喜ぶでしょう。 |
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ストローベイルを用いていましたD | 温度や湿度を計測していましたE |
私は『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』で主張したことを思い出しました。これまでの時代が「最大の消費で最大の幸せや豊かさを感じる時代」であったとすれば、これからは「最小の消費で最大の幸せや豊かさを感じる時代」に転換するに違いないとの仮説です。この幸せや豊かさ感をどこにおくか、この基準が大きく変わるに違いないと思っています。 森の牧場の付属施設ではストローベイルを用いていましたD。そのわら壁の随所に温度センサーなどを埋め込んで温度や湿度を計測していましたE。ストローベイルを用いた壁にすると暖冷房効果がてきめんにあがることを、カリフォルニア州にあるソーラーリビングシステムをかつて訪ねたときに、ブッシュの8年以前に学んでいます。 この森林の牧場や生ゴミによる発電施設を見ていると、いつかは1つの環が出来上がりそうだとわかります。インダストリアルエコロジーと呼ぶ考え方がありますが (『「想い」を売る会社』で触れています)に似ており、ゴミのない社会を作ろうとしているもの、と読みました。 森林の牧場の付属施設で牛乳やソフトクリームを味わっていたときに、森林の牧場で働いていた人が山から下りてきて、薪割りを始めました。森林の牧場から切り出した木を、付属施設のストーブで用いる薪にしていました。また、付属施設で働いていた人も、店番が専属ではなく、以前は他の仕事に携わっていたとか。これも私には腑に落ちます。 どうやらこの会社では、社員をビブギオールカラーにしようとしているようだ、と読みました。ビブギオールカラーとは、単色のホワイトカラーやブルーカラーと違って多彩な人を指しています。工業社会はホワイトカラーやブルーカラーなどに人間を分解し、単色にしましたが、この会社では社員をビブギオールカラー(多彩な人)にしようとしている、と読みました。来るべき次の社会が視野に入っているに違いない、と思いました。それはポスト消費社会ではないでしょうか。私はすでに、世の中はポスト消費社会に突入していると思います。 この人たちがポスト消費社会に備えているとすれば、小泉さんや竹中さんは消費社会をあおり、その弊害をより深刻にして先送りさせた人たちになります。麻生さんはまったく時代を読めていない人といってよいでしょう。この私の見方が間違っていることを願いながら、なんとも情けない気持ちになったいましたが、この施設にふれあい、胸が晴れる思いや胸のすく思いがしたしだいです。 |