野にあるように
 

 この華道家の花をいつくしむ姿に触れ、私は心を打たれました。千利休が残したという言葉「野にあるように」を思い出したのです。それは私が長年にわたって願っていた活け方でした。2つと同じものがない自然の造形物のバラツキ(多様性)を個性として尊重し、その個性を生かそうとする活け方とみました。

 もちろん私は歴史ある伝統の華道に敬意を払っています。しかし問題も見い出しています。他方、アートフラワーなどと呼ぶ近年の流儀の多くには問題だけでなく、疑問さえ抱いています。後者は、高慢ちきな言い方になりますが、人類史的に視れば、工業社会という狂った時代が生じさせた狂った現象に過ぎなかった、といずれ多くの人が認めるようになるでしょう。少なくとも後世の人はそう視ること間違いなしです。

 「自由華道苑」2代目の86歳になる石土和挿庵先生でした。師匠は小糸啓介という人で、池坊の華務長まで務めながら、飽き足らなくなって飛び出し、新派を立ちあげられた人だそうです。

 石土先生は普段と違って「前日の間に、北山にわけ入って(自ら)摘んだ」とおっしゃる花材を主に持参され、4つの花瓶に活け分けられました。最初の1つが出来上がったときに、妻は軽食の準備を整えていました。

 その後、庭を一巡りして、お好みの場所を選んでいただきました。とても遠慮深い人と見えて、好みの場所を口には出されません。きっと「ここに違いない」とにらんだ私は、オブジェのあるヒノキ林を勧めました。そこは一般客には踏み込めない苔庭でした。

 そこで最後の2つの作品@Aを創られ、その前に作られていた1つBを加えた3つをお好みの場所に残して帰られました。

 妻は3つ目を創られている最中に、庭のサクラタデを採ってきて活かしていただいたり、作品の側に人形を持ち出し、写真を撮らせてもらったりしていました。

 とりわけオブジェのあるヒノキ林でのパフォーマンスCに心を打たれました。石土先生の花の愛でようDについ引き込まれ、3時間半はアッという間でした。この華道は、活け方の様式の伝授ではなく、この心のありようの伝授でしょうから、近く日の目を見るに違いない、と思いました。とはいえ、それは10年後か、20年後になりかねません。

 帰りがけに、「センセ、来てよかったですね」とその女性はかたりかけ、先生は「うン」とうなずかれました。これがアイトワで残された先生最後の一言でした。

 このたび初めてヤマシャクヤクの種Eを見ましたが、その美しさにも驚きました。庭に一度植えながら枯らしていますし、2ヶ月ほど前に2本の苗木をもらっていただけに嬉しかった。どこに下ろせば枯らさずに済ませられるか、と思案が始まっています。

 ヒノキ林に残された2つの作品は、枯れ切るまでそのままにしておくことにしました。
 
作品@ 作品A
その前に作られていた1つB ヒノキ林でのパフォーマンスC
石土先生の花の愛でようD ヤマシャクヤクの種E