バイオロジカル・リサイクル
 

 少し理屈っぽくなりますが、ご容赦ください。

 リサイクルが叫ばれ始めた頃に、Recycle を Material(素材)Recycle, Chemical(化学)Recycle, Thermal(熱)Recycle の3つに分類すべきだとの提案がありました。西ドイツで私は最初に聞いています。その折に私は、一番大切な Recycle が抜けていると指摘しました。それが Biological (生物学的)Recycleですが、反応する人はいませんでした。

 その後3Rが叫ばれました。Recycle の前に、Reuse を、さらにその前にReduseを、と2つの R を付け加えるべき、との意見です。もちろん私は一定の評価をしました。それは上の3つに分類するリサイクルでは問題の先送り、と感じ始めた証拠と見たからです。でもそれはまだ私の叫ぶバイオロジカル・リサイクルとの間に大きな差異を残したままです。

 なぜなら、私はリサイクルが叫ばれ始める前に、つまり日本でバブルが生じる以前から「工業社会とおさらばし、次の社会に移行しよう」と叫び始めていたからです。早晩破綻する工業社会の延命ではらちがあかない、と視ていたからです。

 しかし、理解されない。じれったくなって1986年にサラリーマンを辞め、1988年に『ビブギオールカラー ポスト消費社会の旗手たち』を出しました。それは、消費社会でもある工業社会とおさばらし、次代・ポスト消費社会の旗手になろうとの提案でした。

 ポスト消費社会は、ホワイトカラーやブルーカラー(工業社会が生み出した単色で表現される人間)を不要とする。そこで、ポスト消費社会が旗手になるビブギオールカラーを目指そう、と訴えたわけです。ビブギオールカラーとは、ヴァイオレットの V に始まりレッドの R で終わる虹の7つの頭文字をつらねた多彩を意味する「VIBGIOR」と「襟」をくっつけた造語です。

 今日、ワーキングプアーが現れたりリストラにおののくサラリーマンが増えたりしていますが、その多くは(工業社会の要請で誕生した単色型人間)ホワイトカラーやブルーカラーではないでしょうか。それだけに気の毒です。でも、時代は工業社会が可能にした消費社会からポスト消費社会に移行し、ホワイトカラーやブルーカラーを不要とし始めて証拠、と私は見ています。

 話題が少し元に戻りますが、工業社会の延命策のようなリサイクルでは、つまり「せめてリサイクルでもして工業社会を延命させよう」といった考え方では、ますます時代の変化に取り残されかねない、と私は見ています。それではワーキングプアーやリストラにおののくサラリーマン予備軍を増やすだけ、裏返して言えば転換の必要性に気付く人を減らすだけだ、と見るからです。リサイクルはあくまでも、堂々とした繁栄作戦であるべきだと考えたわけです。ですが、なかなか理解してもらえない。じれったくなって、ついにサラリーマンを辞め、ポスト消費社会が歓迎するであろう生き方、そのモデルの1つの創出に専念することにしたわけです。それは新しい豊かさの創出が目的です。

 いずれ工業社会が生み出すモノの Reduse や Reuse ではらちがあかない、と誰の目にも見えるようになる、と睨んだからです。たとえていえば、スーパーマーケットはもとより百貨店もすでに役割を終えている、と見ました。今日それらは、すでにジリ貧状態になっていますが、それは工業社会を信奉する消費者が減りつつある結果、と私は視ています。復活はありません。

 問題は、このジリ貧に伴う重荷、あるいは苦難は、ホワイトカラーやブルーカラーの肩にのしかかりかねない、と見たところにありました。これまでのやり方の延長線上に未来を夢見て頑張り続けるだけでは不十分、と早く気付いてほしいと願ったわけです。

 ですから、誰にでもその気になれば出来る方法で、重荷や苦難から逃れる方法の1つを目に見える形にしたかったのです。それがアイトワであり、その紹介書が『京都嵐山エコトピアだより 自然循環型生活のすすめ』です。それはその前著『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』を読み、「かくあるべし」と気付いてくださった人に対する実施解説書です。
 
 話題が飛躍しますが、こうした考え方をしてきた目で見ると、今の日本には「日本も捨てたもんじゃない」という事例があまりにも少ない。

 傲慢な言い方になりますが、このたび、Biological Recycle によって綿を、しかも使い古した綿ほど効率よくエタノールに転換するという技術を、日本人が誕生させたことを知って、私はとても嬉しくなりました。「日本は捨てたもんじゃない」と思いました。

 その上に、割り勘の酒盛りの席で「森さんは10年以上も前に Biological Recycle を叫んでいたものね」と思い出してくださる人がいたのですから有頂天になったのです。ただそれだけの単純な話、あるいは幼稚な話です。