欧米での体験
 

 幾度目かの海外出張の折のことです。NY郊外にあった同期生の家に連れて帰ってもらいました。その折の、隣人と友だちが交わした話を忘れることができません。

 友人は出張で幾日か家を空けていました。隣人はその間に、友人の家の庭にたまった落ち葉を業者に掃除させておいたというのです。そして、その立て替えた代金を支払ってほしいとのこと。友人もにっこり笑いながら、お世話になったと感謝したのです。問題は、友人の家には落ち葉を落とすような樹木はなく、それは隣人の庭の巨木の落ち葉であったことです。

 屋内に入るなり、私は怒りの声を上げました。なめられてはいけない。日本人だと思って馬鹿にしているのではないか、といきり立ったわけです。友人も、「俺も当初はそう思った」と悠然とネクタイを解いています。そして、「今では思い出すたびに、顔から火が出るおもいだ」と付け加えました。その日の夕食時に、そのわけを理解しました。

 「ここでは」と友人が語り始めました。庭や道路の落ち葉を放置しておいたり、草が生えるにまませとおいたりしてはいけないことになっている。それぞれの庭や道路の管理責任者が掃除をしないといけない、と。私にもここまでは理解できました。問題はその後でした。

 落ち葉は誰が所有している木の落ち葉であれ、落ちた敷地の管理責任者が掃除をする責任がある、という点でした。隣家の樹木や街路樹の落ち葉が自分の庭に舞い込んできても、自分で掃除をしなければいけない。逆に、自分の庭の樹木が隣家や道路に落としても、その落ち葉はそれぞれの管理責任者が責任を持って掃除をしなければいけない、というわけです。

 その義務をおこたっていると知った隣人が、友人のために業者を呼んで掃除をさせたわけです。その行為は親切であり、感謝しなければいけない、というわけです。

 「もちろん森君、この合意に至るまでにずいぶん議論があったようだ。公共性のありかたをつきつめた結果の結論だ。この地域だけでなく、アメリカやヨーロッパの先進地域では常識の考え方だと思うよ」とのことでした。そういわれてみれば、アメリカやヨーロッパであれスラム街には緑が少ないことに気付かされました。もちろん経済的には豊でも、緑に恵まれない地域は、精神的に貧相であることを意味しているのでしょう。

 友人の庭も狭かったが、それより狭い庭なのに隣人は巨木を育てていました。その境目には垣根がありませんでした。

 サクラメントという市民が独自の電力会社を作った都市があります。カリフォルニア州の州都です。ここでは節電発電所という発電所(運動)が自慢の一つです。要は、電力の供給を大手企業に牛耳られたくないと考えた人たちは、市民の出資で発電所を作ったわけです。発電所とは「電力を売ってナンボ」の組織ではいけないと気付いたわけです。安心できるエネルギーの需給を願う人たちが導き出した結論でした。

 その運動の一環として、電力を最も多く要する夏場の昼間(冷房)に焦点を絞った政策がありました。それが太陽光発電の普及と節電発電所などでした。かつて導入した原子力発電施設が安全でも経済的でもないことを知り、導き出した知恵です。設置して間もない原子力発電施設を廃棄し、一石三鳥の策を思いついたわけです。それが節電発電所です。

 火力発電所を作っても、炭酸ガス排出問題で早晩廃棄処分しなければならない時代が来る、と読みました。新規火力発電所建設のために投じる資金を、新規発電設備を不要とするために生か酢ことにしたわけです。その1つが植樹運動です。他に、省エネルギー電球の各戸無償配布、省エネルギー電気機器の買い替えや、同家屋への建て替え補助など。

 電力会社が落葉樹の苗木を市民に無償で提供する。その木を植えたり管理したりするボランティア活動グループが誕生した。かくして民家の南側で巨木を育て、夏場は家屋をすっぽりと木陰にいれる運動です。結果、期待以上の節電が可能になった。空気の浄化や炭酸ガスの排出削減にも効果的と分かった。それよりも何よりも市街の美観が向上し、環境優良都市と認められ、観光都市として栄えるまでになった。旅行収支を黒字化するだけでなく、住民の郷土愛が高まったことが大きいと聴きました。この詳細は『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』(平凡社)で触れています。

 こうした街造りをする上で、樹木に対する認識の転換や、アーボリカルチャーの技術や知識が必須であり、アーボワーカーが不可欠、というわけです。

 わが国では、仙台など強風地域では屋敷林で住処を守っていますが、欧米では街ぐるみの緑化運動が進められているわけです。それは省エネルギーや心身の健康化にも寄与するだけでなく、環境美化の面でも効果があるというのです。

 
民家の南側で巨木を育て