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鹿児島大と隠れ念仏 09/12/06

 庭に出たのはあわせて25分ほど、日曜日と木曜日の昼間に2回、温室の水やりだけでした。長期旅行でもない限り、こんなことは初めてだと思います。それは、2泊3日の九州出張、節目となる2つの会議、家族連れの泊りがけを含む6件の来客、などがあったからです。

 出張は久しぶりの鹿児島でした。非常勤講師として鹿児島大学に呼ばれ、旅行2日目から2日間にわたって講義をしました。講義の後で学生が教壇に押しかけえくれるなど、とてもしやすかったし楽しかった。しかもそのわけをその日のうちに直接知りうる機会に恵まれました。

 この旅行は初日から充実しました。空港まで出迎えてもらう人に恵まれたからです。その上に、希望した見学先の案内と、願っていた通りの人を紹介してもらえたのです。しかも、その鹿児島県に点在する「隠れ念仏」に詳しい人を交えた夕食までご馳走になったのです。「隠れ念仏」とは、島津藩の弾圧の目を逃れ、一向宗徒を命がけで守った仏像や仏画と祈った場所といってよいでしょう。知覧にある「隠れ念仏」を見学しましたが、それには別の願いを込めていました。

 「隠れ念仏」の存在を知ったのは最近のことです。先週末の野外保育施設での講演でお世話になった人に、鹿児島出張の話をしたのがきっかけです。おかげで、宗教と政治の関係やその間で揺れ動いた人びとの心境にしばし思いを馳せることができました。厳しい年貢の取立てに耐えながら、皆で溜め込んだお金を拷問死に結びつく発覚を恐れながら本山に届けていました。

 知覧には特攻平和記念会館があります。念願の訪問先であったのに、意外な自分に驚かされました。35年ほど以前に、とりわけ27〜28歳の頃に訪れていたら、相当昂ぶっていたのでしょうが、逆に脈拍は減っていたと思います。環境問題という人類共通の敵を知ってから、国家とか特定の人や宗教に対する忠誠に意義を見失ってしまったようです。もちろん、酷い宿舎で寝泊りしながら厳しい訓練に耐え、敵艦目指して突っ込もうとした若者には同情しました。

 2日目の午後の講義の前に仙巌園を見学しました。島津藩の歴代藩主が愛した広大な藩邸です。篤姫も駆け巡ったことでしょう。この藩邸は、手入れと管理だけでも大量の労役を必要としますが、創造性や生産性に乏しい空間でした。もっとも園内に反射炉跡がありましたし入り口近くに大きな大砲が飾ってありましたから、それらを富の集積装置や思想と見てとれば創造や生産の場でしょう。しかし、こうした思想や装置が地球を蝕ませてきたのでは、と見てしまったのです。

 鹿児島の翌日に迎えた泊りがけの家族連れは楽しかった。やんちゃな子連れでしたが、妻も大喜びし、粘土を持ち出して造形にまで挑ませました。その男の子には希望のカレーライスを用意し、両親には次々と即興の料理を振る舞いました。母子は先に休みましたが、残る3人は薩摩焼酎を傾けながら深夜まで語り合いました。しかし、その記憶はさだかではありません。翌日も雨でしたから、この子を連れて庭を巡る時間を作れなかったのが心残りです。

 週末の2日間も雨でした。溜まっていた郵便物や新聞の整理とか急がれる文献の読破などに追われ、曇天を幸いに温室にも出ませんでした。新聞ではノーベル賞受賞者が雁首をそろえ、仕分けで減額された研究費を嘆いていましたが、その嘆き方が寂しかった。何のために世界1のスパコンを目指すのか、何のため、誰のための研究か、そこが読み取れなかったからです。日本では自殺が多発していますが、せめて「自殺者を半減する世の中にしてみせる」とでもいったような啖呵を切ってほしかった。そもそもノーベル賞は、DDT開発者に与えながら、すべてのイキモノに貢献したその告発者レイチェル・カーソンには与えずじまいになっています。それはともかくとして、贈り物や献本などにも恵まれた1週間になりました。

 

小さな仏像
「隠れ念仏」。かがんでもぐり込んでも3回も頭を打ち、ゲジゲジが棲むガマの中に、小さな仏像があった。博物館で見た、小さな仏像を隠した柱にうがたれた窪み。発覚すると、薪の上に正座させ、膝の上に載せた重石。女性の攻め具はさらに残酷で屈辱的でしたが、「偽りの白状は出来ません。短いこの世の命を惜しんで、永劫の極楽往生を失うのは阿弥陀さまの心を痛めること」といって死んだ娘もいたとか。
 

柱にうがたれた窪み

膝の上に載せた重石


特攻兵士の宿舎

 
知覧特攻平和記念会館の屋外にあった特攻兵士の宿舎(三角兵舎)と敗戦当日まで特攻にも使われていた飛行機。私には、日の丸をへんぽんとたなびかせた、こうした自殺行為を賛美していた時代があしますが、そこで思考停止しなくて良かったと思いました。知覧から飛び立った兵士は1,035人、うち朝鮮人が11名。そのうちの1人は最後に朝鮮の歌を仲間や見送る女性の前で歌い、出撃したとか。

特攻にも使われていた飛行機

知覧特攻平和記念会館


石の橋

仙巌園にあった竹林
石の橋と仙巌園にあった竹林。こうした橋が市の中心を流れる甲突川に5つもかかっていたのに1993年の集中豪雨で2つが流され、残る3つを移設したとか。ドイツなら何10年かかろうが流された2つの橋の石を探し求め、同じ場所に再建し、橋の役目を果たさせ続けたのではないか、と考えながら渡りました。孟宗竹は、1736(元文元)年に琉球経由で中国からここに入り、その後全国に広がったとか。

桜島を望むなんとも広いキャンパスでした。招かれたのは、全学部全学生が受講できる講座でした。1日目は呼んでもらった先生のゼミ生対象で、この写真の後、ティーチングアシスタントのような役割をした5人の学生が参加する飲み会も設けてもらいました。そこには学部が異なる1年生から4年生まで混じっていました。その日の昼食は学校の近辺でとった海鮮丼。このたび初めて降り注ぐ桜島の砂に驚きました。

 

海鮮丼

両親に連れられた5歳の来客は、ウサギが好きとのことで、妻が与えた粘土で「ウサギを創った」のだそうです。「どれが耳か」などとしばし妻と語らいました。どのように塗装をするのか見たかったのですが、時間切れでした。この男の子は帰りしなに、母親の大きなカバン「持つ」といって石段にいどみ、転げ落ちましたが、泣きませんでした。

秋田と長野の友や中津川の仲間などから贈り物が届きました。コイモと白ネギにはジュンサイとトンブリが添えられていました。好物の干し柿。そして初めて見るカボチャや菊姫イモ、手造りの若いトマトのカレー漬け、桑の実のジャムなど。とりわけ2個ずつあった干し柿とクリの渋皮煮と金ゴマに心を惹かれました。

献本にも恵まれました。米沢でお世話になった人が図書館で貸し出してもらい、期限付きで送ってくださった分厚い書籍を読み終えてから、と思っています。