有意義
 

 まず、角倉一族の偉業を振り返る勉強会を、新たに立ち上げることが決まりました。次に、昨年度の同志社大学大学院での講座でチームを組んだ仲間が会し、実に愉快な夕べを過ごしました。さらに、新たに府が立ち上げた講座の協力者としてエントリーすることを求められました。

 まず角倉一族の新たな勉強会。これまでの勉強会では「小異を捨てて大同につこう」と励ましあいながら進めたのですが、解散するにいたりました。何が小異で何が大同であるのかがあいまいになったことが原因だとみています。

 このたび、同じ思いの人が大勢いたことが分かりました。つまり、没後400年の節目を迎えるのを機に「角倉了以一族の偉業を、角倉宗家、菩提寺、あるいは了以の思い入れが強い千光寺などと一緒に顕彰することが大同」と見ていた人が次々と現れ、あらたな勉強会を立ちあげることになったわけです。

 次の愉快な夕べとは。チーム長であった人の呼びかけで集い、その人の手料理で始まりました。五島列島から取り寄せてもらえた魚を生かし、実に美味な料理が続きました。盃が進むにつれて、微妙な問題にまで踏み込んでしまったのです。

 その1つが「料理はいかにあるべきか」でした。わざわざ新鮮な食材を取り寄せてもらっていながら、素材を売り物にする日本料理に私は疑問を挟んでしまったのです。一流料理を自負する料理屋までが、「豆腐は」「この肉は」「この野菜は」あるいは「この塩は」などと、素材の産地や生産者を自慢します。そこに私は一抹の不安を感じるのです。

 大いなる反論が出ました。当然でしょう。議論はしばらく錯綜しました。そのときに、森さんは「自家菜園で作った野菜を自慢されているじゃないですか」「それこそ食材にこだわっている証拠ではないですか」と、指摘する意見が飛び出したのです。ヤレヤレでした。

 元首相の池田隼人は、かつて「貧乏人は麦を食え」問題を起こしています。私が言いたいことは、それに類する問題に結びつかせかねない考え方に不安を感じている、ということです。つまり、金力や権力などを頼りに、希少な食材や高価な食材をあさるようなことがあってはならない、といいたかったのです。

 「貧乏人は麦を食え」問題が生じた当時、私は多感な年頃でしたし、住んでいた村から子どもたちがことごとく都会に出て行きつつありました。しかし、私は1人、村にとどまることを決めています。その気にさえなれば、誰にでもできる方法で、食材や燃料などを自給する力を身につけたかったのです。つまり、その気にさえなれば誰にでも手に入れられる、あるいは分かち合える素材を活かした料理を「料理の真髄」と見たいのです。

 次に、エントリーすることになった講座は、府が提供するプログラムの1つです。その受講者にOJT(オンザジョブトレーニング)の場を提供するプログラムです。その受諾書には、次のような項目が含まれていました。「事業内容」「実践研修内容」そして「その他」です。

 この項目を見て、個人経営のごときアイトワにも受け入れる資格があるのかもしれない、と考えました、そこで、次のように記入しました。

 「事業内容」:「ポスト工業社会のライフスタイル研究」
 「実践研修内容」:「農をベースとした次代型ライフスタイル」
 「その他」:「工業社会に深い疑問を抱いている人を歓迎する」
 このようなアッピールに飛びつく人がいるのでしょうか、興味津々です