まざまな形
 

 トルコは日本の2倍ほどの面積があり、人口は8千万人ほどで、南北より東西の距離が2,5倍ほどある国です。火山国ですから温泉にも恵まれていますが、地震もつきまといます。1989年でしたか、4万人もの死者を出した地震が思い出されます。

 トルコの大部分はアジア大陸に属していますが、ほんの数%は欧州大陸に属しています。その数%の西の端に首都であるイスタンブールの旧市街があり、その西のはずれにあるエジプシャンバザーのあたりがシルクロードの西の果だと聞かされました。つまり、イスタンブールは黒海とマルマラ海をつなぐ海峡、ボスポラス海峡で隔てられた2大陸のつなぎ目にありますが、現時点ではボスポラス海峡は2本の橋と幾種かのフェリーでつながれていました。その昔は、隊商はアジア側でラクダを捨て、船で欧州大陸に渡ったのでしょう。本来なら今頃は海峡を列車でつなぐトンネでも結ばれていたそうですが、その出入口あたりで古代遺跡が発見され、トンネル開削を請け負った日本の大成建設は難渋しているようでした。

 わたしたちは5月7日の早朝にイスタンブールに着き、その足で国内便に乗継ぎ、南東部にあるシャンルウルファという中規模の都市に降り立ちました。そこから正味10日を欠け、大型バスで3950kmを走破し、イスタンブールに戻りました。その間に、シリアやアルメニアとの国境線近くでは少し緊張しましたし、3000m級の山の峠越えでは少し怖い思いもしました。

 それよりも何よりも、メソポタミヤ文明発祥の地に立っているとの実感に感動です。チグリス、ユーフラティス両大河の源流はトルコにありますし、その両大河に挟まれたアナトリアの大草原には野生の麦がいたるところに群生していました。古の住まいを連想させる民家、日干しレンガで作った蜂の巣のような民家や地べたに直接立てた草屋根の民家も見ました。古代遺跡にも立ちましたが、その後のさまざまな民族抗争の跡をいやになるほど訪ねました。

 トルコ人と日本人は相通じるところを持ちながら、まったく異なる考え方をしていたことにも気付かされました。純粋のトルコ人というものはなく、4世紀ごろに牧草を求めてなだれ込んだモンゴルの血を筆頭に、62の民族の血が混じり合っており、お互いにそれを認めあっていたことです。わたしたち日本人は逆に、純血種かのような錯覚をしようとしています。それも島国根性であるか否かの1つでしょう。

 トルコの食料自給率は200%を超えていると聴きましたし、豊富な酪農品、果物、あるいは蜂蜜などに驚かされました。トルコ最大の湖であるワン湖は琵琶湖の6倍でした。海かのように見えたツズ湖は塩湖で、あまりにも塩濃度が高く、岸辺は塩でしたし、魚は棲んでいませんでした。

 アダムから数えて10代目のノアが、方舟でたどり着いたというアララート山を望むホテルで泊まりました。ノアの2人の息子であるハムとセムが、2大文明の元祖であったと学んだことを思い出したり、メソポタミヤ文明の人たちは現世中心主義であったのに、他方エジプト文明の人たちは永遠の来世を豊かにする準備機関として現世を位置づけていたようだと聴いたりした頃の記憶を辿ったりしました。

 トルコは植物の宝庫でもあることも知りました。欧州には1万2〜3千種の植物があるといわれますが、そのうちの1万種はトルコにあり、その3000種はトルコ特有と聴きました。野生のピスタチオ、アーモンド、ヘイゼルナッツ、オリーブ、あるいはイチジクを見ました。アスパラガスがそこかしこで長けていました。イチジクの大木もありましたが、その葉の切れ込みが深く、アダムやイブは用いやすかったのか、否かと考えました。ローザカニーナというピンク色の野生のバラがそこかしこで咲いており、心惹かれました。

 ユーフラティス川を堰き止めたアタチュルクダムや、その潅概の成果も垣間見ました。広大なムギ畑も出来ていましたし、綿花の輸出国になったとか。ユーフラティス川のシリアに流れる水量を半減させ、緊迫した時代の話も聞きました。当分の間は、トルコを潤しそうですが、いずれアラル海で見るような、あるいはナイル川のダムで見るような問題に行き当たりそうです。